《編集部発》今こそ、自らの内なる「イーハトーブ」の再生
2011.03.25
今回の震災で傷ついた関東圏の工場もようやく復旧の兆し、再生産を始める動きなども現われ始めた。とはいえ、被災地への物資供給や日常生活に支障をきたさないことを当面とした応急処置であることに変わりはない。需要に供給量を間に合わせるため、製品アイテム数などを大幅に絞った集中生産である。もちろん、こうした状況下で差別化などパッケージに拘ってはいられない。
例外処置として、ラベルのないミネラルウォーターを流通させるなど、商品としての欠陥性なども許容される。こうした緊急事態から脱しても、これが日常化するとは考え難い。だが、何かしらこの"経験"は、生活者のパッケージへの意識に大きな変革をもたらすに違いない。以前、本誌が特集でも取り上げた"ノントレー化"といった動きを加速する"動機付け"となる可能性は大きい。
一方で、災害食としてパッケージは必要不可欠な役割を果たしている。津波に襲われた悲惨な映像をあちこちで目にする。当然ながら車や家が押し流される、想像を超えた津波の勢いに目が奪われがちだが、工場や家屋に常備された食品も数多く流出しているはずだ。誤解を恐れずにいえば、そうした食品のほとんどがパッケージに保護され、外的なダメージはあっても中身製品に損傷のないケースはけっして少なくない。
もちろん、震災時のことを考えて設計されたパッケージなどほとんどないと思うが、むしろそれ以上に、過酷な耐久試験を積み上げた結果によるものだからだ。「国内固有の」という訳ではないが、この震災経験により日本のパッケージが持つ、バリア性や密封性などの実力が証明されたといってもよい。「いざと言う時に人間の真価が現われる」ということも事実なら、また"パッケージの真価"も現れるはずである。
"今"だからよく見えるものがある。価値観の転換とともに始まる新しい生活スタイルを支えるプロダクトの、"必要十分なパッケージのカタチ"を考えるべき時である。「ようやく始まった復旧・再生の動き」から冒頭をスタートしたが、いまだ応急処置であることは止むを得ない。だが同時に、これから再生の進むべき方向性として、新しい生活スタイルを意識したビジョンを考え、示すべきではないだろうか。
震災地である岩手ゆかりの宮沢賢治氏が、「岩手」をイーハトーブ(Ihatov)※と称して、そこに理想郷を造ろうとしたことは余りに有名である。それが、どんなものか想像は及ばないが、底流するのは日本人の心象風景でもある、"身の丈"を意識した自然と人間との協和する"里"の世界であったのではないだろうか。
本誌は、「過去に戻れ」と言うのではない。奇しくもゼロからのスタートを切ることになる。それは震災被害の大きい東北人だけの話ではいない。心ある日本の、いや世界の人たちが、同じ大きな価値観の転換という岐路に立たされている。なぜなら"経験"とは、同苦する不二(ふに)の心に宿るからである。
ならばこそ宮沢賢治氏のイーハトーブのように、自らの心奥に実存する自然とともに生きた"里"を再生すべきではなかろうか。その里に生きるパッケージのカタチが本誌は非常に興味深いのである。
※「岩手」(歴史的仮名遣で「いはて」)をもじってつくられた語で、宮沢賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉。