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パッケージングは、心を見える形にしてゆく作業
※今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
かつて米国での留学中に、長期休暇で学校と寮とが完全に閉じるため、数週間だけホームステイをした経験がある。ホームステイはキリスト教が受け皿となったもので、たぶん布教の一環に違いない。ただ、それらしいアプローチが一度もなかったためか、妙な気を遣って日曜礼拝には一緒に参加した。日本人の善くないところである。
まぁ、それでもピンと来るものがなかったのか。その時期を除いて、キリスト教とは疎遠のままである。それが最近、ひょんなことから渡辺和子さん(略歴を参照)の文章に触れる機会を得て、そこにこんなコメントまで寄せられていたのだ。
「私は、渡辺先生を講演で拝見したことはありますが、直接は存じ上げておりません。でも、私の人生は、渡辺先生の本によって救われました。先生の本に出逢っていなければ、今の私は存在していません。先生の『心に愛がなければ』と『愛を込めて生きる』のこの2冊の本が、1人の人間の人生を大きく変えて下さいました。
30歳で離婚しましたので、今から丁度25年前です。4人の子どもを連れての離婚に苦しんでいた時、先生の『置かれたところで、咲きなさい。(−中略−)仕方がないと諦めてではなく、精一杯咲くのです」というお言葉に、命を頂きました。一冊の本が、人の命を救うことがあるのだと、その時分かりました」
これで、渡辺さんの著書を読まないわけにはいかなくなり、その2冊の内の1つ(「心に愛がなければ」PHP文庫)を読んでみたわけである。あのホームステイで表われた日本人の性は、いまだ直ってはいないようだ。ただ、今回はピンと来るものがあった。まさしく「World view」にふさわしいと思えたので、その一部となるが紹介したい。
先に紹介したコメントの方は、あえて「仏教徒ですよ♪」と念をおされていた。本誌も、けしてキリスト教に"ピン"と来たわけではない。もちろん門外漢ではあるが、渡辺さんの目を通じた、キリストやその使徒たちの洞察のおもしろさとでも言うべきか。ちなみに、なぜ「♪」を付けたのかはなぞである。
愛がなければ無に等しい
マザーテレサにとって、街で、行き倒れの人、死にかけの病人を介抱し、孤児、ハンセン病の人々に手を差し伸べるということは、とりも直さず、キリストをいだく、キリストとの出会いに他ならないのである。
どこから見ても、「とうていキリストと思えない」ものをキリストと見る信仰について深く考えさせられている。そして、ミサの度に手のひらに置かれている薄いウエファー状のご聖体をしみじみ「これがキリストだ」と、しばしの間見つめるようになったのも事実である。
聖書の中で、一人の目の見えない人にキリストが「何がほしいか」と優しくお尋ねになると、「主よ、見えますことを」と願うところがある。この言葉こそは、聖体拝領をする者が、手のひらにいただく聖体に向かって唱えるべき祈りなのかも知れない。
それは、そのご聖体そのものにキリストを見るということとともに、今日出逢うすべての人に、事象に、特にどう見てもキリストとは思えない人に、事柄に、キリストを見ることができますようにという祈りでもある。
「王将」という歌の詞に、「吹けば飛ぶような」という言葉がある。不謹慎と言われそうだが、手のひらにいただくご聖体にぴったりで、これをキリストかと、まじまじ見つめてしまう。そして、その思いを私は大切にしたいと思っている。何の疑いもなく、「これは間違いなくキリスト」と、頭から決めていただくよりも、ある意味での一つの驚き、ためらいに似たものを一瞬抱くことによって、私はあらためてキリストの深い愛と、その現存のあり様を新鮮にすることができるように思うのだ。
どこかの修道院で製造され、型に抜かれ、包装されて送られて来る「ホスチア」と呼ばれるもの(ミサのパン)と、これまた多分工場で生産され、さほど上等でもない葡萄酒を、キリストの尊い御身体と御血に変えるのは「愛」でしかない。それは、同時に私たちの日常茶飯の些事もまた、ミサの奉献物となり得ることの保証であり、キリストの愛を受ける時、御父によみせられる捧物となり得ることの約束である。遠くを探さずとも、捧げる材料は足許にある。ただ私たちが、それを捧げる意志があるかどうかにかかっている。
二十九歳まで非常にやり甲斐のある仕事についていて、それを辞めて入った修道院の仕事は、単調なものでしかなかった。覚悟の上とは言いながら、毎日のこととなるといつしか「つまらない」という思いが、顔にも態度にも出ていたのだろう。年輩の修道女がこう言ってくれた。「この世の中に雑用という用はないのですよ。あなたが用を雑にした時に、それは生まれます」。かくて私は、一つ一つのことに愛を込めて行うことを学んで行ったのだった。
「愛がなければ...無にひとしい」。全財産を人に施しても、また自分の身体を焼かれるために渡しても、もし愛がなかったら何もならないと言い切る聖パウロの言葉は、反対に"愛があれば"ほんの僅かの施しも、小さな小さな業も、価値あることを言おうとしているのだ。
星の王子も言っている。「大切なものは目に見えない。肝心なことは、心で見ないと見えない」。ラブレターも、恋人へのプレゼントも、この目に見えない愛を何とかして相手に伝えようとする手だてに過ぎず、文字も便箋も品物も、愛が込められるまでは、単なる字、単なる商品に過ぎないのである。目に見えるものに心を奪われ過ぎている私たちは「主よ、見えるようにしてください」と祈ることを忘れてはなるまい。
ご聖体にキリストを見ることができる者は、「まさか」と思う人にも、事象にもキリストを見ることができるはずである。それはけして易しいことではないけれども、愛を深めるということは、結局そういうことなのかも知れないと思う。
さて、どんな風にこれを読まれたであろうか。本誌には全く、モノづくりの心と同じに映っている。「愛」という言葉は、いかにもキリスト的な感じだが、仏教的にいえば「慈悲」となるだろうか。ごく単純に言ってしまえば、「好きこそ物の上手なれ」である。ただ本誌の胸に強く迫ってくるのは、けしてキリストに限定されるものではなく、何かを信じることの大切さである。
何を信じるかは人によって違いはあろうが、少なくとも「愛」や「慈悲」を抱けるものであってほしい。プロダクトやパッケージを生み出す作業も又、渡辺さんのいう「目に見えない愛を、目に見える形にしてゆく日常を送る」ことであると思うからである。信じるものが見つかれば、必然的に聞きなれない「ご聖体」も、身近なモノとして手のひらに抱けるに違いない。
渡辺和子(わたなべかずこ)…1927年2月、北海道旭川市で生まれる。1951年聖心女子大学を経て、上智大学大学院を卒業。1956年ノートルダム修道会に入り、アメリカに派遣されて、ボストン・カレッジ大学大学院に学ぶ。ノートルダム清心大学教授を経て、1990年3月までノートルダム清心女子大学の学長を務める。1990年ノートルダム清心女子大学名誉学長、1992年日本カトリック学校連合会理事長。現在はノートルダム清心学園理事長を務める。