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手間ひまを掛ける営みが最善の道
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
かの福沢諭吉が「学問のすゝめ」に著した冒頭の、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」との一文はあまりにも有名である。それは"自然平等論"を説いたものではなく、人の上下をつくるのが「学問」ということなのだ。だからこそ「すゝめ(薦め)」なのである。
ただし、「学問」とはいっても知識の詰め込みではない。人の性は生来、偏狭なものである。見たいものをみ、(たとえ視界に入っても)見たくないものはみない。好むことをやり、好まないことはやらない。案外、そんなものである。だから他人とつながることが大切なのだ。
「つながる」とは、多少なりとも他人を心に入れることである。その入れた部分には必ず好きも嫌いも包含されている。大事なのはむしろ、この"嫌い"の要素の方である。いつもなら見向きもしないものも、友を通じてついつい受け入れてしまう。そんな経験はないだろうか。
「論語」の有名な「学びて時に之を習う。亦説ばしからずや。朋有り、遠方より来る。亦楽しからずや」との孔子の言葉は、そんな思いを素朴につづったものではないだろうか。狭義の師弟に止まらず、色々な人と広く深くつながり、生涯の友を得ることが「学問」の全てだと思えてならない。
まさしく「我以外皆我師」との言葉のままに、学識を広げる本誌の源泉もまた友人、知人といった人とのつながりにある。その知己の一人から薦められたのが飯嶋和一氏の小説「始祖鳥記」である。以来、好きな作家の一人となっている。
まだ著書の数は少なく、今回紹介する最新作「出星前夜」(小学館文庫)の"あとがき"には「飯嶋和一の読者であることは辛い。なにしろ新作が発表されるのは4、5年に一度。オリンピックかサッカーのワールドカップ並の頻度だ」とあるほどである。毎度のことで文脈は読みづらいと思うが、何か心に残るものはあるはずである。
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陰暦5月21日(陽暦7月13日)、この朝も陽が昇る頃には、甚右衛門の姿はすでに鬼塚の水田にあった。甚右衛門の稲の育成法は、他の者たちとは異なっていた。数株ごと植えつけることはせず、苗一本ずつを一尺もの間隔を取って植え付けた。
一見、ひどく効率の悪い方法に映るが、こうすることで一株ごとの稲は存分に光を浴びることができる。手はかかるが、稲も強く、結果として数株ずつ植えたものよりも確実な収穫を上げることを甚右衛門は確信していた。
甚右衛門の屋敷に収容した寿安の身は心配する必要もなかった。昨夜から有家の若衆や娘たちが屋敷を取り囲み、夜明けにも五十人ほどが残っていた。甚右衛門は、昨夜の物々しい身ごしらえとは一変して、いつもの麻衣と野袴で木戸を出た。
甚右衛門が一人あまりにも無防備な格好で木戸から出て来たことに、屋敷を取り囲んで寝ずの番をしていた若衆や娘らのほうがあっけにとられていた。甚右衛門の手には土べらが握られ、背負っていた藤編み籠には草刈り鎌しか入っていなかった。
十三年前に馬鹿呼ばわりされながらも、甚右衛門は鬼塚にわざわざ溜め池を掘削した。すぐ側を川が走っているのだから水には困らない。しかし、甚右衛門は、多大な出費と労力とをつぎ込み有家川の水を一旦池に溜め置くことをあえて敢行した。
その前年、元和9年の冷夏は惨憺たる結果を南目の田にもたらした。有家川は水涸れの心配はないが流れが速い。その分水温は低く、直接川から水を引いたのでは、稲にとってよいわけがない。溜め池で少しでも水温を上げておき、それからゆっくりと田に水を送る。
ほんのわずかな水温の違いが、収穫に多大な影響を与えることも甚右衛門はその時に学んでいた。この夏も気温が上がる気配がなく、稲を守るためには田の水を深くしておく必要があった。寒さの夏には、水を深く保つことこそが稲を守ってくれる唯一の手段だった。
最善を尽くせば、必ず何らかの形でこたえてくれることも、長年の米づくりが甚右衛門に教えた。誰が何といおうと甚右衛門だけは絶望も諦めもしていなかった。思いどおりにならないことは世の常であり、最善を尽くしても惨憺たる結果を招くこともある。
最善を尽くすことと、その結果とはまた別な次元のことである。しかし、最善を尽くさなくては、素晴らしい一日をもたらすことはない。たとえ収穫が通年の半分に満たなくとも、刈り上げた日の喜びと充足は訪れる。
それは結果として得られる収穫の量とは別な次元のことであり、何より最善を尽くしたという充足感こそが、不安を埋める唯一のものであることも、甚右衛門は米づくりに打ち込むことで学んできた。この朝も、田一枚ごと取水口を次々と開けてまわり、伸ばした指先から肘の上まで水かさを増やした。
田に水を送りながら、甚右衛門の眉間の皺は深く刻まれたままだった。気温が低く雲天続きでつい錯覚しがちになるが、この二月というものは小雨や霧雨ばかりで、まとまった雨は来ていなかった。現に溜め池への取水口まで行ってみたが有家川の水量は増していない。
これから大暑を迎える時節に猛暑に見舞われれば、それこそ危機的な状況となることは避けられなかった。四つ半(午前9時過ぎ)、事情はどうあれ、代官所の下役十三人を殺す結果となった騒動の首謀者として、寿安は源之丞方の玄関先に座らされた。
縄目こそ掛けられなかったものの筵は許されず、たたき土間に直接座らされることとなった。甚右衛門は、寿安の後方に半間ほどの距離を置き、玉砂利の上に筵一枚を敷き控えさせられた。
「かつて当村内桜馬場にて庄屋を務めておりました矢矩吉兵衛が遺児、鍬之介でございます。当年十九にあいなります。恐れながら、このたびの騒動に及びましたこと、お奉行様にはただ申し訳なく存じ上げます。また不埒を働きましたわたくしに、かかる場を設けていただきましたこと、心より御礼申し上げます。わたくしがいたしましたる不埒と、そうではないことを包み隠さず申し上げ、ご成敗を頂戴いたしたく参上いたしました」
寿安は落ち着いたものだった。両手を土間につき、頭を低くして口上する声には怯えの色もなく、とても二十歳前の若衆とは映らなかった。田中藤兵衛は、源之丞方玄関の二段になった板敷きの上段に座し、後方の文机には書き物役が一人配置されていた。
下段には藤兵衛の手代が二人脇差しを帯びて控え、土間奥左右には打ち刀を帯び六尺棒を手にした下男が二人、片膝をついて警備に当たっていた。甚右衛門は、このたびの騒動にかかわった若衆をすべて出頭させると申し出た。
それはかなわなかったが、首謀者の寿安が、教会堂跡にあったすべての鉄砲と弾薬を差し出し出頭したことで、最低限の条件だけは満たすこととなった。「ともかくも、心がけは殊勝である。その方の申し分あらばまず聞きたい。申してみよ」
「おそれながら申し上げます。そもそも、わたくしは、三年前までは課せられましたお年貢をまがりなりにも収めて参りました。ところが、この二年の天候不良による凶作は、五反の田から籾米で五石、五分摺りに脱穀いたしますれば、わずか二石五斗の米しか収穫できませんでした。
一年間働きづめで八十八度の手入れを怠りなく務め、その結果が通年の半分にしかなりませんでした。わたくしのお納めすべき御年貢がその二石五斗でございますゆえ、すべて完納いたしました暁には、わたくしが食べる米はもちろん、翌年の種籾さえもなくなるのでございます。
にもかかわらず、お番所からは、通年と変わらずの年貢割りを当村に求められました。後ろにひかえておられます甚右衛門様を始め庄屋衆の嘆願によりまして、翌年の種籾の分だけは何とか御免除いただきました。それでも五分摺り米二石をお納めすれば、わたくしが食べる米は全くございません」
【著者プロフィール】飯嶋和一:1952年12月山形県生まれ、法政大学文学部卒業。中学校教諭、予備校講師などを経て執筆活動に専念。これまで刊行された長編作品は全て書き下ろし。「汝ふたたび故郷へ帰れず」「雷電本紀」「神無き月十番目の夜」「始祖鳥記」「黄金旅風」。