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知識と無知、有想と無想、自力と他力を結合した包装美
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
フェイスブックに、知人が沈む日を追いかけて高速を走らせる車中から撮った写真とともに「高速を全集中で走り、約4時間でトンボ返り。直行で稽古にも間に合ったが、駐車料金に高速料金、ガソリン代と意外に高く痛い出費。沈みゆく陽を追いかける自分がまた時間に追われる不思議さ」とのコメントを上げていた。
ワイズスペンドをつづけているつもりが、思わぬ出費を招く。時間を追いかけているつもりが、常に追われている。抜き手をきっているつもりが、いつしか流されている。自力で生きているつもりが、他力に生かされている。ふっとしたとき人は、その事実に気づくのであろうか。
先日、OPEC(石油輸出国機構)加盟と非加盟の主要産油国で構成されるOPECプラスが「大幅増産を見送ることで合意」との速報が流れた。遠い西の話とは思いたいが、すでに原油価格高騰による物価上昇は生活に痛手をおよぼし始めている。
「SARS-CoV-2の感染再拡大で需要が再び落ち込むことを懸念」との理由のようだが、それは産油だけに止まらない。いわば、再燃を恐れたコロナパンデミックの後遺症であるだけに、立ち直るまでにはかなりの時間を要しよう。それでも、立ち直るまで追いつづけるか。
それとも後遺症を受け入れ、ニューノマルな未来に進むかの決断のときである。「ニューノーマル」とは、構えずに他力(自然)とともに生きることである。今回は、民藝運動を起こした思想家の柳宗悦の著書「工藝の道」(講談社学術文庫)から、その一部を紹介する。
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個人作家への是認は美術的要素への是認である。しかしかかる要素を来るべき工藝にも要求すべきであるか。工藝をして工藝美術に転ぜしむべきであるか。かかることは可能であるか、また正当であるか。ここに重要な問題が提起される。
しばしば主張されたように、個性の表現に近代美の特質があると考えられる。私もまたそこに特殊な美があることを否むことができぬ。しかしこの主張はより多く美術の原理として考うべきではないであろうか。果たしてかかる主張は工藝にも適応されるであろうか。
また工藝の道が果たして個性の表現に適するであろうか。多くの個人的作家が「工藝」を去って「工藝美術」に転ずるのは、「美術」の分野でなくば個性が表れにくいからではないか。純工藝に止まることは、それを許さないからではないか。
このことから何が導かれるか。工藝美と個性美とが相反発することを語るであろう(あの用途を旨とし奉仕を心とする工藝が、個性を言い張るとき、よき器たり得ないことについて私はすでに記した)。それゆえ個性美は工藝美ではなく美術美である。
それなら私は安全にこういうことができよう。個人工藝家の美術的作品を通して、作者の躍如たる個性を尊ぶことはできる。だが、これは工藝品としての美を讃えているのではない。人間としての面白味があって、ただちに作そのものの価値とはいえない。
人々が在銘のものを尊ぶのは、作者を見て、作そのものを見ていないからである。私は再び木米を例に挙げよう。私はすでに彼の筆跡や南画が、彼の焼物よりさらに美しい旨を述べた。しかし恐らく彼の価値のうち一番躍動するのは、木米その人の性格であると思う。
彼は必ずや驚くべき鋭い性格の保有者であったであろう。譲歩を持たず、妥協を知らず、不羈放逸な強い性格があったであろう。そうして彼の神経は恐らく休息を知らないまでに働いていたであろう。そうして彼の美に対する感覚が鋭敏であったということに疑いはない。
だが、その個性の表れであった彼の焼物は、いかなる美をわれわれに示してくれたか。それを平凡の作と誰もいうことはできぬ。だが、同時に平易でないがゆえに、いかにも角が多いであろう。そこには利口さから来る意識の患いがあまりに多い。
もし彼の如き神経質な作を健全な作というなら、すべての工藝家は精神衰弱に罹ることを余儀なくされるであろう。人間の魅力直ちに器の魅力とはならぬ。個人工藝家として最も偉大であると誰もが許す、光悦を見られよ。彼が私に与える一番強い誘引は、彼の作よりも筆よりも、実に彼自身である。
その円かなる温かなすべてを包み、すべてを識る賢くしてしかも潤いある彼の人格であったといわねばならぬ。彼は彼の作品よりさらに美しく大きい。そういえないであろうか。彼の作物にはなおも作為の傷が残る。彼の衣鉢を伝えた乾山においてもそうである。
彼の人物は彼の焼物より遥かに完備する。そこには静寂と温情との結合があった。彼は優に一禅家の位ある人であった。私は彼の人となりを慕う。だが、彼の工藝は彼の一生より偉大な藝術であったろうか。モリスを選んで来るとき、この対立は一層明確になる。
彼において一番偉大な価値のあるのは、真理のために戦ったその驚くべき性格、熱烈な真摯な倦むことなき生涯である。そうして彼のうち一番価値の少ないのは、恐らく彼の遺した工藝品である。むしろ創意の乏しい美術化された作品である。
あるものは見るに堪えぬ。彼が愛した中世紀の無銘な古作品と何の連絡があろうか。姿は似るとも心の相違をいかんともすることができぬ。なかでも良いものは、ほとんど皆伝統的作品に止まる。
とくに工藝において、個人作家の価値がしばしばその作品より、その一生にあったということについては、次の例証がさらにその事実を強めるであろう。あのパリッシー(Palissy)の作を見よ。私は、そのどこにも心を誘われる美を見ることができない。
だが、彼は偉大な列伝中に載るべき人ではないか。彼は彼の作るものにではなく、彼自身の一生に、美を焼き付けたといえないであろうか。私は、現代の陶工としての(板谷)波山氏について、しばしば涙ぐましい多くの物語を耳にしている。
貧と失敗に甘んじて、その努力を曲げることのなかった彼の信念について景慕の情を禁ずることができぬ。しかし彼の価値はパリッシーのそれと同じであって、その作品にあるのではない。そこには美と技巧との錯誤よりほか何もない。
人々はけして彼の一生より、より美しい焼物を見る場合はないであろう。いわゆる「名工」と呼ばれる匿れた幾多の人々がある。それらの人々の性格を耳にするとき、私の興味を惹かない場合は少なくない。彼らの一生は、必然に奇行放逸に富む。
よし、その行為に不道徳な幾多の個所があっても、性格にはなお藝術品たる面影が見える。しかし、私は彼らの作品に心を惹かれる場合がはなはだ少ない。その「名工」の称号は、多く技巧のことに属して美に属するものではない。
私たちは個性美を直ちに工藝美と誤認してはならぬ。いな、工藝において個性美はかえって一つの致命傷的傷を残すであろう。工藝品の価値に関する認識は、作に表れた結果において加えねばならぬ。作者いかんが作品の価値を左右するものではない。
もし作者の偉大な個性のみが、偉大な工藝を産むなら、民衆の工藝は全く不可能であったはずではないか。人間として見るならば、いかに教養ある個人作家の方が、無学な工人たちより上であろう。しかるに作物より見るならば、いかに個人的作より民藝の方が上であろう。
驚くべき不可思議な対比ではないか。知識と無知、有想と無想、自力と他力、私はこの両者の対比について多くの暗示を受ける。民衆のどこに美の認識があろうや。そうして個人的作のどこに無想の美があろうや。これらの事実は、私たちに何を告げるか。両者の結合と補佐とが来るべき工藝において果たされねばならぬ。
プロフィール◎柳 宗悦(やなぎ むねよし)
1889年3月、東京生まれ。学習院を経て、1913年に東京帝国大学文学部心理学科を卒業。1910年、学習院高等科在学中に文芸雑誌「白樺」の創刊に加わり、同人となる。のち朝鮮の工芸や木食上人の彫刻、ブレイクとホイットマンの詩を紹介。大正末期より民芸美論をたて講演と調査、収集のために日本全国と海外各地を旅行した。志賀直哉や武者小路実篤、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチらの文学者や工芸家と交流をもち、民芸運動の普及に努めた。雑誌「工芸」「民芸」を創刊し、1936年に東京駒場に日本民芸館を創設。主な著書に「雑器の美」(1926)、「日本の民芸」(1960)などがある。1961年5月に没した。