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心(中身)の豊かさは“即”言葉(器)の豊かさ
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
「名は必ず体に至る徳あり」という。最近なぜか、あの錦織圭氏のテニスのプレイに魅せられている。いや"プレイ"というよりは、そこに表われた精神の闘争に同苦している。霊峰富士は悠然とそびえ立っているが、その山頂付近は常に強い風に吹かれている。
頂上を目指し登るほど、技術や体力はもとより目には見えない幾多の心の障害(壁)がある。それをひとつ一つ越えてゆくには、心の領域(器)を広げる以外にはなかろう。
苦しいときは身を固め耐え忍ぼうとするわけだがから、必然的に心も委縮しがちである。そんなときこそ強いて笑みをつくれば、身は自然と弛み、心は開放される。笑みは「名」であり、心は「体」である。言葉は「名」であり、生は「体」である。また器が「名」であり、中身が「体」である。
体が「主」であり、実体であるには違いないが、それは名によってつくられるところも大きい。また逆に「体」は如実に「名」に表われることを考えれば、この相即不離の関係を主体的に生かしていくことが大事であろう。
今回は、その人の「生」「心」と不可分の言葉について、国語学者・大野晋氏の著書「日本語の年輪」(新潮文庫)から興味深いその一部を紹介したい。言葉の変化しゆくのは自然の摂理であろうが、その種類(選択肢)が減り、表現の乏しくなってゆくことは心配である。
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言葉には命の長いものと、命の短いものとがある。「もの」「こと(事)」「目」「口」「手」「足」「取る」「見る」「来る」というような言葉は、日本語の記録がある最も古い時代から、ずっと命長く使われて来た言葉である。しかし、「行くだろう」「行った」という表現は、古くは「行かむ」「行くべし」「行きぬ」「行きたり」などと言った。
「む」「ぬ」「たり」などは文法では助動詞といって非常に多く使われる言葉であるが、「平家物語」に出てくる助動詞は28種類で、現在はそのうち五種類しか使われていない。つまり古い言葉は18パーセントしか残らず、他は別の言葉になっている。
助動詞は、寿命の点では非常に短い言葉である。また助詞の場合はどうであろうか。「が」「の」「に」「を」「て」などの助詞は、「平家物語」などには53種あるが、現在はその28種を使っているから、53パーセント残っていることになる。
これもやはり寿命が短い方に属する。もう1つ、寿命の短い言葉に、副詞がある。副詞とは「はなはだおもしろくない」とか、「かならず行きたい」とか、「ひたすら勉強する」とかの、「はなはだ」「かならず」「ひたすら」のような言葉をいう。
これらもあまり長い間もたず、新しく使い出される言葉にとってかわられることが少ない。それだから、その言葉の成り立ちの由来を推測できる場合が多い。「からなず行く」という場合の「かならず」は、古くは「かんならず」といったろうと思われるもので、これは「仮ながらず」から来ている。
仮にではない、ほんとうにするだろうという意味の「かならず」がつまって「かんならず」となり、さらに「かならず」となった。これは古い時代には、「かならじ」という形もある。「かならじ」とは、「仮りならじ」というので、「仮りにではあるまい」の意。
「おそらく」「たぶん」という意味に使われたのだろう。「ひたすら」の「ひた」は「ひとつ」の「ひと」と同じ。「すら」は弦・筋と同じ源から起った言葉。従って「ひたすら」は「一すじに」の意味である。
今日はインスタント時代などといって、即席にいろいろなものが間に合う時代、また即席に間に合うものを喜ぶ時代である。「インスタント」とは「イン」と「スタンド」と合わさった言葉である。「スタンド」というのは「立つ」ということで、酒場のスタンド、電灯のスタンドと同源である。
それで「インスタント」とは、つまり「立っているところで」というのが原義である。ところが、これは日本語にもそのままの言葉がある。「たちどころに」という言葉がそれである。つまり、インスタント時代とは「たちどころ」時代である。
「たちまちにして」などというのも、もとをただせば「立って待っているうちに」ということで、立ち待ちが原義。「源氏物語」などには、「たちながら」という言葉もある。「たちながら」とは「立ったままで」ということ。それで「すぐさま」「ついちょっと」という意味に使われた。
こういう言葉の作り方に対して、昔も今も非常によく使われる方法に、「ぷりぷり」とか、「ぐるぐる」とか、「うろうろ」という擬音語がある。これは、「たわわ」「とをを」「はだら」「ほどろ」のように、「アアア」に対して「オオオ」という音の対応で成り立つものである。
だから「浅」に対して「遅」「粗」に対して「疎」という一対の言葉もあった。今日「おろかだ」といえば、それは頭がわるいということを意味している。しかし、「おろか」のおろは、「粗塗り」とか、「粗画き」などの「あら」と同じ意味であったらしい。
つまり、「あら」とは、「こまかくない」「すきまがある」ということで、「おろか」の「おろ」も、「すきまがありおおざっぱだ」という意味であった。
「万葉集」で、非常にきれいな於布の浦の磯の景色を見て、「おろかにぞ/我は思ひし/於布の浦の/荒磯のめぐり/見れど飽かずけり」という歌を作っているが、この場合の「おろかにぞ」は、おろそかに、いいかげんにという意味である。鎌倉時代の「古今著聞集」には、「おろおろ仔細を問うた」とある。
だいたい大ざっぱにそのことの様子を訊ねたという意味である。「おろ」とは、間引くこと「おろ抜く」とも使うように、密度が濃くなくて間が抜けていることであるから、「間の抜けた男」はつまり「おろかな男」で、頭の鈍い「おろか」は、すでに「源氏物語」などにも使われている。
「おろける」といえば、頭の働きが鈍ってはっきりしなくなると。「おろおばえ」といえば、ぼんやり覚えていること。これを室町時代ごろから「うろおぼえ」というようになった。
「おろめく」「うろめく」とは、考えなしにあわてて何かすることであり、「おろおろする」とは「うろうろ」すると同じで、何をしてよいかがはっきりとわからずに、あちこちと、あてどもなく動きまわるということになる。こういう言葉の作り方は、日本語だけにあるのではなく、朝鮮語にも非常に多い。
「からから」「ころころ」「きりきり」「はらはら」「ほろほろ」「ばらばら」「ぼろぼろ」「かたかた」「ことこと」「ばたばた」「ぼとぼと」といったような言葉が、日本語にも朝鮮語にも非常に多いのは、朝鮮語との近しさを考える上で大いに学者の注意をひいている。
この、音の感覚にたよった言葉は、私たちがちょっと気がつかないところにまで入りこんでいる。「ゆたか」といえば、現在では、物が豊かだ、豊かな資質と使う。しかし、「万葉集」では、海辺に寄せてくる波がゆたけく思われると歌っている。
「ゆたか」と同じ源の「ゆたけく」は、ゆったりと広々としていることを指した。また、「万葉集」では美人の形容として、胸がゆたけく腰が蜂のように細いといっている。これは胸が豊満だという意味であろう。「ゆたけき海」とは、「広い海」というだけではなく、この内容が充実して、しかも大きい感じがある。
だから、「ゆたけき胸」も「豊満な胸」という意味である。この源にある余裕のある気持ちは「ゆったり」という現代の擬音語が受け継いでいる。つまり、「ゆたか」という言葉は「ゆた」という擬音語から成長した。しかし、初めは音の感覚で作られたそういう言葉も、時代がたつにつれて次第に豊富な変化をそれで表わすようになり、もとの形がわからなくなってくる。
「ゆたか」も、「ゆったり」から次第に「物が豊富だ」という意味になり、また、「ゆたかな資質」という使い方も生まれてくる。こういう表現法を、理知的でなく、原始的だといって軽蔑する西洋の学者もある。
しかし、これは非常に感覚を重くみた造語法で、日本語の一つの特色として、必ずしも避けるべきものではないと思う。むしろ、これとともに理知的に物を表現する行き方を、併せて発達させて行けばいいのである。
大野 普(おおのすすむ)
1919年8月、東京都江東区に生まれる。古代日本語の音韻、表記、語彙、文法、日本語の起源、日本人の思考様式など幅広い業績を残した。とくに「岩波古語辞典」の編纂や日本語の起源を古代タミル語にあるとしたクレオールタミル語説で知られる。主著は「日本語の起源」「日本語の文法を考える」「日本語の形成」など。2008年7月に死去。国語学者。文学博士。学習院大学名誉教授。