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縄文にさかのぼる人類の共通の原初的思想の体現
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
また今年も、広島と長崎に原爆が投下された青空が広がる夏を迎えた。71年目となる8月6日、広島で開催された平和記念式典の平和宣言で松井一実市長は、「今こそ『絶対悪』を消し去る道筋をつけるために連帯し、行動を!」と力強く世界へ呼び掛けた。
この2016年は、5月にオバマ米大統領が広島の平和記念公園を初めて訪れたことから、例年とは何かしら違った思いで"この日"と向き合った人は多かったかもしれない。だが、大事なことはけしてオバマ氏に委ねられたものではなく、われわれ1人1人の心に築き上げなければならないものだ。
「何が正しいのか?」との分別はむずかしいが、それは「正」との文字が示すように「一」を止めることの勇気にある。「悪人の敵になり得る勇者でなければ、善人の友とはなり得ない」といわれる。「『一』とは何か?」といえば、それこそが松井市長の指摘する「絶対悪」である。
言いかえれば、正しきことの分別はむずかしいが、「絶対悪」と対峙して戦いつづける勇気に「正しき心」が宿るのである。小さなことから大きなことまで、悪の根は心深くで「一」であるが、意外に善の根は心浅くつながりにくいことも事実である。
だからこそ絶対悪の「一」と戦いつづけることで、善人の友として心深くつながってゆくのである。その善のつながりゆく確信が、どんな環境や状況変化にも左右されず、また誰かを頼り過ぎることもなく、前三後一(ぜんさんごいち)の力強い歩みで物事を前進させてゆくのである。
「人生七十古来稀なり」(杜甫の詩「曲江詩」)で人であれば古希の節を超え、前人未踏の新たな一歩を踏み出す"71年目"である。前人未踏なだけにその先をどう開くのかは、他の誰でもないわれわれ1人1人の心次第とはいえまいか。
今回は、哲学者を標榜する梅原猛氏の随筆「老耄と哲学」(文藝春秋)から、その一部を紹介したい。91歳となる梅原氏は著書の最後で、題名の「老耄」に触れて「『老』とは七十歳を指し、『耄』は一説には九十歳を指すという」と記している。
不思議な符合のようにも思えるが、梅原氏は京大文学部哲学科の入学式(昭和20年4月入学)を終え帰宅したときに赤紙を受け取っている。著書のなかには「私は幸運にも、戦後71年の人生を生きながらえているが、そのような人生も原爆犠牲者のおかげであるといわねばならない。今年の原爆の日、私も原爆犠牲者の霊に心から哀悼と感謝の念を捧げたのである」と記されている。
また「核兵器を保有する一国が他国に先立って核兵器を廃棄することはまことに困難であり、----中略----アメリカが他国に先立って核兵器を全廃することは夢にも考えられない。この道は甚だ困難な道であるが、この道を進まないかぎり人類の末永い繁栄は不可能であろう」と結ばれた梅原氏の指摘は深い。
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日高敏隆氏の令夫人から日高氏の「ぼくの世界博物館誌」(玉川大学出版部)という著書が送られてきた。日高氏はここ10年来、私が最も親しくしていた友人であり、氏の著書は多く読んでいたが、この著書については初耳であった。
小学生のころの氏は体が弱く、体操がうまくできないので、「おまえは兵隊になれない。そんな奴は日本にとって邪魔だから死んでしまえ」と先生たちにいじめられた。4年生になると、とうとう学校をずる休みして、毎日近くの原っぱで虫を観ていた。
虫は一生懸命に何かをしている。日高氏は虫に「何をしているの?」と問いかけるのが常であった。ところがある日、担任の先生がやって来て、「おまえは昆虫学者になれ。昆虫学者になるためには国語や地理や歴史を学ばなければならない」といった。
このひと言が動物行動学者、日高敏隆を生んだといってよかろう。この本は学術調査や学会で赴いた世界各地の漫遊記が中心であるが、その挿絵を旅に同行した喜久子夫人が描いている。その絵がまことにおもしろい。喜久子氏は無類の猫好きであり、挿絵のほとんどに猫を登場させている。あたかも猫が日高夫妻と漫遊の旅に同行していたかのようである。
動物について日高氏は独特な観察を重ねる。家族がバーベキューをしていると、日高家の猫たちはその食卓から1メートル半ほど隔てた物置や壁の上などに腹ばいになって、飼い主一家をじっと見ている。それによって日高氏は、すぐ側で飼い主をみているのが猫たちの幸福なのではなかろうかと考える。
またオスの蝶がメスの蝶を求めて飛ぶという習性を知った日高氏は、メスの蝶の羽を透明なアクリル板に貼りつけ、オスの蝶がそれを見つけることができる最大の距離を測定する。アゲハチョウがメスを見つけられるのは1メートル半弱以内、モンシロチョウは15センチメートル以内であることが分かった。
蝶はその範囲内しか正確にものが見えないのだろう。またアメリカシロヒトリという小さな蛾は、毎朝、鶏やヒグラシが鳴くのとほぼ同時刻の午前4時に姿を現し、飛び回る。あたかも彼らはそれぞれ時計をもっているかのようである。
しかしある小雨が降った薄曇りの日、鶏やヒグラシが鳴き、アメリカシロヒトリが姿を現したのは4時15分であった。それで日高氏は、一定の明るさがまさに彼らの時計であることを発見する。
この観察の結果、日高氏は、人間ばかりか動物もそれぞれ文化をもっているので、人間が威張るのはよくないという結論に達する。この結論は、私の長い間考えてきた哲学の結論とほぼ同じである。この書を読んで、あまり健康に留意しなかった日高氏の死をつくづくと残念に思う。
私はほぼ40歳まで主として西洋哲学を研究したが、以降、日本の宗教、芸術ばかりか、日本の歴史についても論じてきた。この私の学問が「梅原日本学」とか「梅原古代学」などと呼ばれるが、私が日本研究を始めたのは、西洋哲学はもはや将来の人類を導く哲学として通用せず、東洋あるいは日本の思想に20世紀以降の世界の指針になるような思想が隠れているのではないかと思ったからである。
日本の思想を研究すること約45年、ようやく日本文化の中核思想を見出した。それは「草木国土悉皆成仏」という言葉で表現される天台本覚思想である。この思想は天台宗と真言宗が合体した天台密教から生み出され、その後、浄土、禅、法華仏教などの鎌倉仏教の共通の思想的前提になった。
このような思想は、古く縄文時代に遡る日本の思想であるが、それは日本独自の思想というよりは、狩猟採集を営んでいた人類の共通の原初的思想と考えて差支えなかろう。私はこのような思想と西洋の哲学の接点を考えつづけてきたが、いくつかの体験と思索によって、その接点を見出した。
最近、デカルトやニーチェ、ハイデッガーを読み直しているが、彼らは若き私を感動せしめたすばらしい哲学者であることをあらためて感じたものの、彼らの思想の欠点もまたよく理解できるようになってきた。哲学には先人の思想との厳しい対決が必要であろう。
私は「草木国土悉皆成仏」という思想をデカルトやニーチェやハイデッカーの思想と対決させねばならない。近代西洋哲学に理論づけられた近代西洋文明は人類に自然科学という大変大きな恩恵を与えたが、科学を使って自然を奴隷のごとく支配することによって人間はかぎりなく幸福になれるという思想は誤りであろう。
そして西洋思想の伝統を厳しく批判したニーチェもハイデッカーも、将来の人類に対する的確な指針を与えていないと思う。
梅原猛(うめはらたけし)
1925(大正14)年、宮城県生れ。京都大学哲学科卒。哲学者。ものつくり大学総長、京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。東日本大震災復興構想会議特別顧問。碧南市哲学たいけん村無我苑名誉村長。 立命館大学文学部教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長、社団法人日本ペンクラブ会長などを歴任。主著に「隠された十字架―法隆寺論―」(毎日出版文化賞)、「水底の歌―柿本人麿論―」(大佛次郎賞)、「京都発見 一?九」「日本の霊性―越後・佐渡を歩く―」「歓喜する円空」など。1992年に文化功労者、1999年に文化勲章受章などを受賞。