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パッケージは文化的な生活に息づく心の余裕
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
年齢にもよるものかもしれないが、最近は「フードファイター」というのか、大食いを競うTV番組を好むようになった。以前は「大食いを競うなんて食材にもつくり手にも失礼だ!」と勝手な思いで嫌っていたことが、不思議なほどだ。
それこそが「食わず嫌い」であったことを反省している。もちろんフードファイターといい、大食いといっても人によるところは大きく、少なくてもトップを競うようなファイターの無心で食べる姿は非常に心地よく、誰もが忘れがちな食への大いなる愛情をともなっている。
「飢餓で苦しむ人たちがいる一方で」とは避けがたい現実ではあるが、それでもわれわれが日常で廃棄している量に比べれば、大食いでの量など高が知れよう。むしろ大食いで、真に競い合われているのは単なるスピードや量ではなく、食への愛情の大きさではなかろうか。
その証左として長年番組が存続しており、惜しげもなく投じられる様々な食材や、忙しなく動きつづけるつくり手もみな、その愛情を感じ心から歓びが湧き上がってきているように思われる。ましてや(ルールはあろうが)完食した何も残らない皿の美しさには驚かされる。
その彼らや彼女らに触発されて(赤子のように)食への無心の愛を取り戻せば、誰もが日々の生活で食材をムダにするようなことはなくなるに違いない。今回は、作家・生活史研究家の阿古真理氏の著書「料理は女の義務ですか」(新潮新書)から一部を紹介する。
このタイトルをみて、男性諸氏は目を覆いたくなるかもしれない。だがその実、これは阿古氏の女性への問い掛けなのである。
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確かに、やれば疲れる家事は少なくない。フルタイムで働いたあとに料理し、子どもをなだめすかして寝かせるのは、疲れることだ。それが大変でないというつもりはない。しかし、疲れるのは「働いた」と思われるときだけではない。
人混みのテーマパークに出かけたあとも、スポーツで汗を流したときも、新しい洋服を買いに行ったときも疲れるのだ。人が活動すれば疲れるのは当り前である。「精神的な負担が違う」という人もいるかもしれないが、料理は楽しい、達成感がある掃除が好きという人もいる。
子どもの相手をすることが、何よりの癒やしだという人もいる。一方で、買い物や外出が義務化していて負担と感じる人もいる。家事は生活の一部なのだから、収入があろうがなかろうが、子どもであろうが大人であろうが、障害者や老人であろうが、できることはやるのがよいのではないだろうか。
交替制もいい。分担制もいい。もちろん外注する部分があってもいい。幼い子どもが家事を手伝いたがるのは、生活に参加したいからだ。家事を取り上げられた高齢者の老化が加速するのは、役割を失うからだ。ともに生活を運営することが互いのサポートになり、家族の自立につながる。
家事を引き受けることは、生活に主体的に関わることであり、家族の自立につながる。家事を引き受けることは、生活に主体的に関わることであり、責任を負うことである。大変さと楽しみを知れば、感謝や労わる気持ちも生まれる。
家事をすべて外注したとき、残るのはホテル暮らしのような仮住まい生活である。旅人のように身軽で孤独な長い年月に耐えられる人が、どれだけいるだろうか。家事を一人に背負わせないことは、もう一つ別の問題への処方箋となり得る。
それは孤食である。家族がバラバラに食事することが本当に問題なのかはともかく、肝心なのは、家族の誰かに孤独を感じさせない方法を見つけ出すことである。
様々なデータを基に食卓の変化を分析した「平成の家族と食」(品田知美編、晶文社、2015年)によれば、「子どものいる核家族では、全員がそろって共食する家族が1988年から2012年にかけて、ほぼ半減した」。そして「最も家族がそろわないのは片働きで夫の収入が高い世帯である」。
理想的なライフスタイルと思われている家族が、実はお互いから最も引き離されている。長時間労働の慣行や女性の所得が上がらない現状が変わらないかぎり、食卓をともに囲むことは困難なままだ。問題解決は早急に望まれるが、社会が変わるのを待っていたら、今育っている子どもは、成長して家を出てしまう。
しかし、家族が役割を決め、できる範囲で家事を受け持つことはできる。やってもらうことで相手に感謝し、やってあげることでその人を思う。食卓を一緒に囲めなくても、互いの存在を感じることができるのだ。共通言語ができれば会話も生まれる。
また役割を決め、あるいは見直すために話し合う時間をつくり出すことができる。家族で生計を担っていた昔、あるいは主婦一人で家事をこなし切れなかった手作業の時代、家族はそうやって分担し生きてきたのではないだろうか。日本で性別役割分業による効率化の近代は終わった。
料理は、ただ単に誰かが素材を加工すれば食べられるものになる、という以上の存在である。相手を思いやってつくった料理には、その思いがこもる。たとえば歯が生え揃わない赤ん坊に与える離乳食は、食材をつぶした粥状のものにする。
嚥下障害をもつ高齢者には、とろみをつけた料理にする。風邪を引いた人には体を温めるものを、活力をつけたい人には肉たっぷりの料理を、あるいはスパイシーな料理を食べさせる。もちろん、外注料理で相手にふさわしい献立や店を選ぶこともできる。
しかし、誰かが素材や献立を選んで自分の体を動かしてつくった料理には、味つけそのほかから、その人の労力と思いやりが自然とにじみ出るのだ。自分に合わせた料理を食べさせてもらった人は、大人になったとき、自分が大切にされていたことに気づく。
そして、自分が価値のある人間だと確認する。一方で、おざなりな料理で育った人は、十分に愛されていなかったと気づいてしまう。大切にされなかった過去や現在を生きている人は、自分を価値ある人間だとは思えないのである。結局、料理は料理だけの存在ではない。
料理が象徴する愛情や無関心を、人は知らず知らずのうちに受け取って自分の拠りどころにしていくのである。だから、疎ましい相手の料理は食べられない。相手に対する警戒心が料理への警戒心と結びつく。ときには食べるという行為そのものを否定して、拒食症になる場合もある。
それでもなお愛したいと望む親にぶつけられない怒りが自分に向い、生きようとする体を否定する。そこまで追い詰められることも、人にはある。与えられる側にとって、料理は愛情の象徴であるが、つくる側にとって異なる意味も合わせもつ。
それは、与える側になることで、あるいは自分で自分を養うことで自立のきっかけを掴むことだ。子どもが親のために食卓を整えたとき、親は子どもが出て行く未来を予感する。認知症の人に料理させる療法を行ったとき、病人は少しだけ自分を取り戻す。
自分で自分の味を選ぶようになったとき、その人は与えられた味に満足していた子ども時代に別れを告げる。今までとは別の相手に料理するようになったとき、愛情を与える相手が変わったことに自ら気づく。だから料理は生きる権利でもある。
憲法が保障する「健康で文化的な生活」を送る権利には、料理をつくる時間と気持ちの余裕を与えることも含まれているはずだ。多忙ゆえに料理しない人々を責める権利は私たちにはない。むしろ、当人たちが「料理する権利を返せ!」と主張するべきなのである。
阿古 真理(あこまり)
1968年、兵庫県生まれ。神戸女学院大学卒業。作家・生活史研究家。食や暮らし、女性の生き方などをテーマに執筆。著書に「パクチーとアジア飯」(中央公論新社)、「小林カツ代と栗原はるみ」(新潮新書)、「なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか」(NHK出版新書)、「昭和の洋食、平成のカフェ飯」(ちくま文庫)、「『和食』って何?」(ちくまプリマー新書)、「昭和育ちのおいしい記憶」(筑摩書房)などがある。