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変化しゆく時代の有り体を映ずるパッケージ
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
何度となく聞いたことであろうが、「忙」との言葉は心を亡くすと書く。月が明ければはや「師走」といったこともあろうが、年々とときの過ぎる速さが増していくことに驚かされる。しかも速さばかりではなく、目まぐるしい変化をともなったもので、ともすれば本当に心を亡くしかねない。
「平成」の最後の数ヶ月は、ときに流されず心を亡くすことなく、ときを身に引き寄せて、その変化の有り体をしっかりと心に映じてみたい。その心に映じたものを言葉とし、パッケージとし、プロダクトとして、希望の未来を創造する力としなければならない。
そのために必要なことは何だろうか。激動の時代に身を置くことを自覚すればこそ、「自分自身に深く根差した心の静けさ」との心に残る誰かの言葉が浮かび上がる。言葉はいかにも抽象的だが、なぜか幼少のころにゆっくりとしたときのなかで母や祖母、叔母や先生たちから聞いた言葉と結びついている。
それは、ケガをして泣いたときの「痛いの痛いの飛んでゆけ!」やガマンできず川で用を足したときの「川の神さまごめんなさい!」「誰もみてなくてもお天道様がみているよ!」との呪文のような言葉である。そこには、はっきりとは掴めなくとも通底した何かがあるように感じられる。
今回紹介するのは、比嘉淳子・沖縄オバァ研究会の編著「沖縄オバァ列伝〈黄金言葉〉オバァの人生指南」(双葉文庫)のなかの、幼少のころのオジィとオバァとの思い出を描いた一遍である。言葉はともかく、沖縄ならではの話というものではなく、誰もが共有できる幼少の思い出といえる。
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その松井氏がこんな興味深いことをいっている。それは、「環境問題も色んないい方ができますが、駆動力で物が循環を加速していることが問題の本質です。われわれは一年生きる間に、地球の物質循環としては十万年分くらい物を動かしているのです。だから地球の一千万年の間の歴史をみたら、環境変動なんてごく普通のことではないですか」というものである。
いまでも思い出すとほんわか温かく、自分のなかでちょっとだけ誇らしく思うことだけれど、ぼくはオジィとオバァにとても愛されていた。初孫ということもあるが、なによりも方言でふたりと話すことができたからだ。
今から約半世紀前の大学生のころ、なにがきっかけだったのか忘れたけれど、方言をちゃんと話せるようになりたくてオジィとオバァの家にことあるごとに通い詰めた。ふたりは肉屋を息子夫婦に任せてほぼセミリアタイアしていたので、話す時間はたっぷりあった。
最初は孫に合わせて共通語だった会話は、しばらくすると方言オンリーになっていた。方言だからこそ話せることがたくさんあったに違いない。オジィとオバァの生まれた故郷のこと(今は那覇空港になっている)、ふたりの出会い、戦前に南洋のテニアン島の近くにある小さなバガン島に移民していたこと。
沖縄に帰ってきたときの苦労、ふたりの長女であるぼくの母親の子ども時代などなど、本当に色々なことを聞いた。ふたりが思い出して語る昔の沖縄の風景や戦前の暮らしが、復帰してすでに日本になっていた当時の沖縄とあまりにもかけ離れていて、まるで外国の話を聞いているようにすごくおもしろかった。
そしてなによりも、ふたりの話には温もりがあった。戦前の暮らしには何もなかった。貧乏だった。子育てに苦労した。働いて働いて少しずつ裕福になっていった。
そういう話はもちろんたくさんあったけれど、そこには必ず、「あのとき、あの人に助けられた」「あそこのオバァは、こんなときにこういうことをしてくれる、すごく徳のある人だった」と、数十年前の出来事を、涙を浮かべながら本当に手を合わせるくらいに感謝しながら語るエピソードがいつくも添えられた。
たとえば、子育て中、乳の出が悪いとき、「○○のお姉さんが自分の子どもは右に、私の子どもは左に抱いて、おっぱいを飲ませてくれた」とか、裕福な実家のお姉さんが貧乏な家に嫁いだオバァの家をときどき内緒で訪ねてきては、「クルザーター(黒砂糖)を袂から出して子どもに分けてくれよった」とか。
また本当にお金に困って、ある金持ちの家にときどきお金を借りにいったこともあり、そのとき「借りたお金を期限に間に合わせて返せば、そのお金をそのまま、利子なしで貸してくれよった」とか、そういう話だった。
いいことばかりだったわけではないはずで、人に騙されたり、裏切られたり、血管が切れそうになるくらい怒ったこともあるだろうに、そんなことはあまり覚えていないのか、あえて口に出さなかったのか、オバァが語る昔話には、圧倒的に「感謝」の話が多かった。
ぼくもあの頃は若くて多感なころだったし、恋も勉強も遊びも中途半端で少し荒んでいたので、そんな話に癒やされていたんだろう。だから、しょっちゅうオバァの家に通っていたんだと思う。と書くとオバァはすごく人格者だったように見えるけれど、残念ながら、実はそうではない。
ちょっとばかりいいところのお嬢さんが貧乏な家に嫁いだケースにありがちなパターンで、オバァはときどきワガママなところがあって、なにか悪いことをしたり失敗したりしたことを注意されるとよく逆ギレし、一緒に暮らしている嫁どころか孫までも真剣に怒らせることがたびたびあった。
実家は金持ちだったのに、なんで自分がこんなことを言われないといけないのかなど、感情的になって言わなくてもいいことをついつい口にしてしまい、周囲のひんしゅくを買うこともしょっちゅうだった。昔、人が施してくれた善行を思い出して涙ぐむくらいだから性根はやさしいはずなのに、孫が端からみていてもあまり人付き合いは上手ではなかったように思う。
そんなオバァだったけれど、穏やかな気持ちでお茶を飲みながら語るとき、ぼくにしょっちゅう言っていたことわざがある。「シェケノー、チャーウヮービドー(世間は常に上だよ)」。自分がどんなに正しいことをしていると思っても、強く前に出てはいけない。
おまえは大学も行って頭もあるかもしれないけれど、学問があるからといって、お金があるからといって、おごってはいけない。どんなときにでも世間は常に自分の上にあると思って言葉を慎みなさい。人の目を引く行動や物言いはしてはいけないよ。
今になって振り返ってみれば、あれはときどき心にもないことをいって相手を怒らせてしまいがちな自分自身を戒める言葉だったのかもしれない。それとも、打たれ弱い孫のことを見抜いていたからこそ何度もくり返して諭してくれたのだろうか。
オバァがあの世に逝ってしまった今となっては確認のしようがない。そのほかにも、口が災いのもとになるということわざはいくつか教えられた。「口くぇー喰―らりーんどー(悪いことを口に出してしまうと本当になるからいうな)」。「口難口言や人ん倒すん(人に対する恨いつらみ、妬みそねみを口に出してしまうと、その人が言葉に当たって病気になってしまう)」。
初孫で長男でまわりから甘やかされて育ったのも一因かもしれないけれど、子どものころのぼくはそうとう短気で、怒ると人相も変わって怒鳴り散らしていたらしい。都合の悪いことは忘れるもので、そんなことはあまり覚えていないが、オバァは口汚い孫の将来を危惧していたのかもしれない。
そういえば、幼いころからぼくがひどい言葉を使ったりすると、火の神の前にぼくも横に座らせ、手を合わせて謝っていた。「子どもが口に出した悪い言葉をどうぞ、許してください。言葉銭使いということを教えますので、どうぞ許してください」。
結局、人間は弱くて小さいということを段々と実感してきたのかもしれない。「今やっている仕事が上手くいきますように」などあちこちに手を合わせるようになってきた。もちろん、祈ったからといって急に客が増えるわけもでもなく、頑張らなければ上手くいく仕事もダメになる。
けれども日々祈っていると「昨日はお客さんがたくさん入ってくれました。ありがとうございます」ととても素直に感謝できることも分ってきた。言葉に気をつけて謙虚になること、そして感謝すること、どちらも数十年前にオバァが教えてくれていたんだなと思うと、あらためてその存在の大きさに気づく。
沖縄オバァ研究会
「沖縄オバァ」の魅力を世に伝えたいと、ウチナーンチュ(沖縄人)と沖縄病に感染した移住者たちにより結成された。編著書に「沖縄オバァ列伝」「続・沖縄オバァ列伝 オバァの喝!」「沖縄オバァ列伝番外編 オジィの逆襲」などがある。