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World View

伝統を受け継ぎ、時代に寄り添い 生活を愛でる包装

 「欲望の川に押し流され、手に入れた物を失うことを恐れる心には、たどり着く岸辺などはない」とは、「インド独立の父」と称されるマハトマ・ガンジーの残した言葉のようである。現代を生きるわれわれの心に突き刺さる、実に厳しい言葉ではなかろうか。
 2021年12月1日に20歳となられた(天皇・皇后両陛下の長女)愛子さまが成年行事に臨まれ、成年女性皇族の正装となるローブデコルテを着用された姿を拝した人は多かろう。そのときに着用した愛子さまのティアラが、(陛下の妹)叔母の黒田清子さんに借りたものであることが話題となった。
 当時、清子さんのティアラは天皇ご一家の私費でつくられたため、結婚後も清子さんの所有となっている。これまでは女性皇族の成年に合わせてティアラは新調されることが多かったことから、借用に対し「叔母さまから受け継ぐって素敵」「コロナ禍の事情を考慮された」と好意的な意見のある一方で、「悲しい」「つくって上げて欲しい」と異を唱える人もいたようだ。
 どうしても、われわれは壮麗な儀式やローブ、ティアラといった飾り物に目は奪われがちとなるが、大事なのは20歳となった愛子さまの心に「国民に寄り添い」「借り物を愛でる」といった感謝が宿っていることであろう。
 今回は、評論家の松原久子氏がドイツ語で執筆した「Raumschiff Japan」(宇宙船日本)を、田中敏氏が翻訳した「驕れる白人と闘うための日本近代史」(文藝春秋)から一部を紹介したい。
 「Raumschiff Japan」は、「日本よ、外に向かって発言しなさい」「言挙げせよ日本・欧米追従は敗者への道」などと訴えつづけた著者が自ら範を示し、言挙げてドイツ語で日本を語り、ドイツで出版された原著である。
 
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 開国したときの日本の文明は、西洋の五百年後ろの足を引きずって歩いていたという妄想は、数えきれないほどのバリエーションで繰り返し語られ、彩色されてきた。この陳腐な発想の呪縛から自由になれる人はまずいない。
 五百年先を走りつづけた西洋文明に一気に追いついた民族が世界の片隅にいるという現実は、多くの人々を興奮させた。白人たちは精神を苛立たせた。神秘を感じながら危機を感じた。そのようなことを成し遂げることができるのは、一体どんな人間か。
 その黄色人種は、異常な力を駆使でき、ヨーロッパ世界の脅威となる天才的な超人か、はたまた悪魔か。このアンビヴァレントな想像は、ヨーロッパ人の心を深く惑わしている。好意的に考えるか、反感をもつかによって、日本は神秘と力に満ちた国となったり、暗黒の陰謀に満ちた帝国として描かれたりする。
 しかし魅惑も恐怖も、誤解に基づいたものなのである。私はこの問題を、それではなぜほかの国々は日本と同じことを成し得なかったかと、発想を転換して考えてみたいと思う。
 世界のいたるところに、アジアにもアフリカにも中東、近東、南アメリカ、中央アメリカにも、今日なお開発途上国のグループに数え入れなければならない民族がいる。彼らは苛酷な植民地時代から解放されると、欧米の仲間入りをするために力を尽くした。
 彼らは何十億ドルという開発援助をもらった。工業化社会に円滑に移行できるよう特別な援助計画が立てられた。工業列国は道路、鉄道、空港を建設した。全てが完備された工場施設も建てた。その国々に適した独自の工業が始動できるよう心を配った。
 エネルギーの供給を改善するためダムと発電所も建設した。工業列国では今日、開発途上国の人たちを実地指導するために、多大な労力が費やされている。そして開発途上国の多くの留学生が、工業列国で様々な知識を学び、帰国している。
 にもかかわらず、その成果は、いくつかの途上国が半工業国のグループへと発展することに成功したとはいえ、大半は期待のはるか彼方に留まったままである。この状況を日本が十九世紀の後半に置かれた状況と比較してみたい。当時は、国際的な開発援助などなかった。技術教育の助けも財政援助もなかった。
 学術、技術、文化の交流計画もなかった。工業先進国の費用で学ぶことができる第三世界諸国からの留学制度もなかった。国際連盟も国際連合もなかったし、世界銀行もなかった。あったのは苛酷で、情け容赦のない植民地主義だけだった。
 植民地妄想に取り憑かれた欧米列強にとって、自国の国境の向こう側は、甘いお菓子以外の何物でもなかった。日本のような、二百年以上の鎖国から顔を出したばかりの小国は、欧米の植民地保有国の豪華な食卓のデザートになって終わりを遂げてしまわないよう注意しなければならなかった。
 西洋人が「われわれは日本人を援助した。われわれの助けがなかったら、日本の近代化はけして成らなかった」というのをしばしば耳にする。事実はこうである。日本政府は開国のあと「自国の費用で」何百人という日本の学生をヨーロッパの工場国に留学させた。
 そして日本政府は、同様に「自国の費用で」学者や技術者を日本に招聘した。エルヴィン・ベルツも招聘された約五百人の専門家の一人であった。彼はドイツで大学教授資格をとったばかりの大学の若い助手だった。彼自身の記録によれば、彼は東京に官舎を与えられ、初任給は年収1万6200ライヒス・マルクであった。
 今日なお発展の遅れを引きずっている国々は、その原因が必ずしも植民地主義の後遺症だけとはいえない。たとえばトルコは、かつて一度も植民地になったことのない国である。
 オスマン帝国は、ヨーロッパに隣接しているという地の利のために、数世紀を通じてヨーロッパの発展をすぐ近くから追いかけ、学ぶことができる状況にあった。財政的にも力のある強力な国であった。だが長期にわたって革命による混乱が生じ、二十世紀のはじめに帝国の武力外交政治は崩壊した。
 しかし現実的には、(開国当時の日本は)工業化のための前提状況は、すでに十分に満たされていたのである。国を開いた十九世紀半ばには、日本には貧富の極端な差ははく、富は広く分配されていた。また手工業の教育訓練を受け、学習意欲のあるというより学習熱に取りつかれた若者がたくさんいた。
 見事に運営された学校制度があった。総人口との比率で比較すると、ほとんど全てのヨーロッパ諸国よりも多くの人たちは読み書きができた。数世紀前から国内市場が栄え、見事に張り巡らされた交通網と、それに付随する道路、運河、船の航路とった産業基盤も完備していた。
 資金は、贅沢を第一に考える人たちではなく、投資事業に意欲をもった人たちの懐のなかにあった。手工業から工業化された生産過程への切り替えを可能にするためには、教育・訓練を受けた人々が存在しなければならない。その際一番よいのは、国民が手工業の伝統をもっていて、技術的な手際のよさに対する高度な要求に応えられることである。
 そのような環境のなかにいた人たちは、従属するべく飼いなされ、貧困のなかにいた人たちよりも、はるかに向学心があり、学習能力にも優れている。工業化を成功させるためには、輸送網も不可欠である。道路、河川、運河、海路などで、それらを利用して、原料を産地から工場へ、製品を向上から消費者へと運ばなければならない。
 最後に、自力で工業化を成功させるために必要なのは資金である。工場を建設し、機械を備え、原料を購入し、賃金、給料の支払いを確保するために、資金は不可欠である。そのためにはまた、資金を貸し出すことのできる金融機関、銀行がなければならない。

松原久子(まつばら ひさこ)
1935年5月21日、京都市生まれ。1958年に国際基督教大学卒業後、米ペンシルヴェニア州立大学院舞台芸術科で修士号を取得。1970年に西ドイツ・ゲッティンゲン大学院で日欧比較文化史の博士号を取得。ドイツでは週刊全国紙「DIE ZEIT」でコラムニストを務めたほか、西ドイツの国営テレビ(当時)で日欧文化論を展開。ドイツペンクラブ会員。1987年に米カリフォルニア州に移住。スタンフォード大学フーバー研究所特別研究員を経て著作に専念。