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World View

世間と人の間を手の届く歓びや楽しみで満たすパッケージ

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 「論語」の第1章「学而第一」は、孔子の「学びて時にこれを習ふ、またよろこばしからずや。朋有り遠方より来る、また楽しからずや。人知らずしていきどほらず、また君子ならずや」との言葉から始まる。「昨今、あまりに悲惨な現実をみたくない」と歎く知人がいる。
 若ければまだよかろうが、歳を重ねればなおの歎きである。また同じような歎きを抱く人は、けして少なくはないものと思う。この孔子の言葉は、そんな心境のときにこそ味わい深く感じられる。
 意訳するまでもないが、「(若き日に)学んだことをあらためて習う。また(当時のように)歓びが湧く。(ふいに)友が遠くから訪ねて来る。楽しいことではないか。誰に評価されずとも憤ることはない。それが君子というものだ」と孔子がいうのである。
 「歎き」「悲しみ」「憤り」といった思いは、自らの手の届かないことで膨張していくものであろう。むしろ「歓び」「楽しみ」はすぐに手の届くところにあると、孔子はいっているのであろう。だから、手の届かないことは無視すればいいというのではない。
 「論語」の「学而第一」のように、最初は手の届く「歓び」「楽しみ」を身に感じることであろう。「習う」「来る」、また「評価」も一人で完結するものではなく、必ず相対する人がいるものだ。「世間」も「人間」も「間」で成り立っているから、その「間」を「歎き」「悲しみ」「憤り」ではなく「歓び」「楽しみ」で満たしていくことが大切である。
 今回紹介する、ライフネット生命保険を創業した出口治明氏の著書「人生を面白くする----本物の教養」(幻冬舎新書)には、テーマの教養についてシャネルの創業者ココ・シャネル女史の次の言葉が引用されている。
 「歳をとった無知な女でも、まだ道端に咲いている花の名前を1日に1つぐらいは覚えることができる。1つ名前を知れば、世界の謎が1つ解けたことになる。その分だけ人生と世界は単純になっていく。だからこそ、人生は楽しく、生きることは素晴らしい」と。
 
* * *
 
 「自分の頭で考える」際には、「腑に落ちる」という感覚が1つのバロメーターになります。本当に自分でよく考えて納得できたとき、私たちは「腑に落ちる」という感覚を抱きます。この感覚は大変重要です。ところが、「腑に落ちる」ことも、また少々軽視されているところがありまうす。
 たとえば、何か分からないテーマや事柄があったとして、それについて誰かが説明していたら、その説明を聞いただけで、もう分かったつもりになっている、といったことはないでしょうか。
 とくに最近は安直に「答え」を欲しがる傾向があり、それに応じてきれいに整えられた「答え」や、一見「答え」のようにみえる情報が、ネット空間などに溢れています。ランキング情報やベストセラー情報などは、その最たる例です。
 あるいは情報がコンパクトにまとめられたテレビ番組もたくさんあります。多くの人が、まるでCVSへ買い物にでも行くかのように「答え」の情報に群がり、分かった気になっています。誰かの話をちょっと聞いただけで「分かった」と思うのは解決法です。
 立派な人の本を読んで「なるほど、その通りだな」と思い、翌日に反対の意見を持つ人の本を読んで「もっともだな」と思ったのでは、意味がありません。自分の頭で考えて、本当に「そうだ、その通りだ」と腹の底から思えるかどうか(腑に落ちるかどうか)が大切なのです。
 私自身は、人の話を聞いてすぐに「分かった」と思うことはほとんどありません。心の底から「分かった」と思えない間は、「そういう考え方もあるのだな」という状態で保留扱いにしておきます。否定もしません。結論を急いで「分かった」と思おうとするのは間違いのもとです。
 「腑に落ちる」まで自分の頭で考え抜いているかどうか、私たちはもう少し慎重になった方がいいと思います。整えられた「答え」で済ませてしまうのは、その方が楽だからです。しかし、それは手抜きというものです。世のなかの大抵の物事には、じつはすっきりとした「答え」がありません。
 それが人生というものです。すっきりとしているのは、多くの情報が削ぎ落とされ、形が整えられているからです。しかし多くの場合、削ぎ落とされた部分がキモだったり、形を整える際に、(道理ではなく)無理が入り込んでしまっていたりします。
 すっきりしない情報をあちらこちらから収集し、自分の頭のなかで検証し、本当に納得することが、「自分の頭で考える」ということです。物事を見誤らないための、とても重要な作業です。私は、多少へそ曲り的な性格ということもあって、子どものころからずっとその姿勢を貫いてきました。
 「何となく腑に落ちないな」という感覚が少しでもあれば、安易な妥協はせずに探究をつづけることが大切です。別の見方を考えてみる、さらに情報を探してみるなど、いまでは情報を探る方法はたくさんあります。探究をつづけるうちに、あるところで、本当に「腑に落ちる」という感覚が得られるはずです。それが納得できたということです。
 人間が意欲的、主体的に行動するためには、「腑に落ちている」ことが必須です。講演会で若い人たちに、「もし、あなたの大好きなボーイフレンド、ガールフレンドについて、親が交際に反対したらどうしますか?」と質問すると、ほぼ全員が「親のいうことは聞かない」と答えます。
 どうして親の反対を無視できるかといえば、「この人がいい」とはっきり分かっているからです。しっかりと腑に落ちているからこそ、親の反対があったとしても交際をつづけるという行動がとれます。腑に落ちていることが、行動力やバイタリティーの源泉になります。
 つまり、本気を呼び起こすのです。最近は、少しむずかしい政策課題などについて、世論調査を行うと「どちらともいえない」という回答が増えているそうです。たとえばTPP問題などもそうです。
 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加すべきかどうか、賛成派の話を聞けば一理あると思い、反対派の話を聞けばそれももっともだと思ってしまう、という具合に、自分の意見をなかなか決められない人がたくさんいます。そうした場合、どうすればいいのでしょうか。
 厳しいことをいうようですが、「どちらともいえない」を選んでしまうのは、ほとんどの場合「考え不足」が原因です。本当は、その問題に正面から向き合って十分に考えていなかったり、手持ちの情報が少なかったりするのが原因なのに、「それはむずかしい問題だから」と理由を置き換えて、自分を誤魔化しているのです。
 そもそも、意見を決められないとき、私たちはどのくらいその問題について真剣に考えているでしょうか。そのテーマに関する本の一冊も読んでいるでしょうか。大して考えることのないままに、「決められない」といっているだけではないでしょうか。
 日本人の教養不足の一因は、このような「手抜き」にあるように思います。端的にいえば、勉強不足です。わずかな努力を惜しんで、お手軽な「答え」に乗っかろうとする風潮が強すぎます。これでは「自分の頭で考える」ことなど夢物語です。
 また日本人は、一つのことを粘り強く考えるということをあまり好みません。むしろ、しつこく考える人は嫌われる雰囲気さえあります。そのため、何かのテーマがじっくりと追求されることがありません。一時は人々の関心が高まったとしても、すぐに興味は失われ、忘れ去られてしまいます。
 関心がいつも、流行っていることの表面的な部分に止まっていたら、「決められない」のも当り前です。私たちは自分たちの飽きっぽさをもう少し自覚する必要があります。

出口治明(でぐちはるあき)
1948年、三重・美杉村生れ。京都大学法学部を卒業後、1972年に日本生命保険相互会社に入社。企画部や財務企画部で経営企画を担当する。ロンドン現地法人の社長や国際業務部長などを歴任し2006年に退職。同年、ネットライフ企画株式会社(現ライフネット生命保険株式会社)を設立する。2017年に会長職を退任し、2018年から立命館アジア太平洋大学学長。