トップページ > World View
「縁」を盛り立てて「場」と生きるのがパッケージ
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
かつて「ああ言えば、上祐」とのいい回しが、流行したことを記憶している人もいるだろう。元オウム真理教・広報部長であった上祐史浩氏の、巧みな饒舌を揶揄した言葉である。「ああ言えば、こう言う」とのいい回しをもじったもので、いくらスマートで言葉巧みでもすぐに底が知れてしまうものだ。
一方で、考えや言葉の足りないことを小ばかにして、人の揚げ足取りばかりしていることも同じ類いといえる。ましてや、言葉に責任を負う立場のメディアが率先し、揚げ足取りばかりに血道を上げているとすれば恥ずかしいことであろう。
それは「ディベート」ともいいがたい悪質な言葉遊びで、その真実・本質に迫ることもなければ、現実を動かす思いも力もない。最も大事なことはディベートに勝つことでも、優位に立ち振る舞うことでもなく真実・本質に迫り、現実を動かすことである。
それには、表層的な心ない言葉などにとらわれず、相手と真摯に向き合うことで人としての多様性や心根をよく知ることである。そうすれば、(揚げ足など取らずに)同じ人として相手の心を動かすことで、現実を思うように動かしていくことができるはずである。
この世のなかに、記号化された「アノニマスな消費者」などはいない。誰もが個性的な顔をもつ人間であり、思考を止めずに心を働かせれば必ず「顔」はみえてくるものである。今回は、グローバリズムに警鐘を鳴らす実業家の平川克美氏の著書「グローバリズムという病」(東洋経済新報社)の一部を紹介する。
* * *
マーケティング理論のなかに表われる等価交換モデルのような人間とは、まさに経済合理的に記号化された人間だ。そこでは、貨幣が使用価値をもたない交換価値だけの担い手であるかのように、人間もまた個性や多様性といった身体的な重さをもたない、アノニマスな消費者として記号化されているわけだ。
こういった思考に慣れ過ぎると、次第にアノニマスな消費者以外の消費者を誰も思い浮かべることができなくなる。世界はすべて、市場であれ、そこでは何もかもが金銭と交換可能だという思考が普通になってしまう。多くの人が、自分を生活者ではなく、アノニマスな消費者として位置づけて怪しまなくなる。
アノニマスな消費者の誕生こそは、グローバル資本主義の最大の成果の一つだろう。世界のどこでも出現し、ネット空間で買い物をしてくれる。わたしたちは、どうやったらアノニマスな顔のない消費者から、「顔のある人間」へと回復してゆくことができるのだろうか。
かつて、吉本隆明は「結婚して子どもを生み、そして、子どもに背かれ、置いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生産を終える者が、一番価値がある存在なんだ」(「敗北の構造」弓立社、1972年)といったことがある。
含蓄のある言葉だが、今、この消費資本主義の時代にどっぷりと浸かっているわれわれのうちのどれだけの人間が、こういった含蓄を理解するだろうか。吉本隆明がいっているのは、生活者の思想というものがあるということと、その思想のなかでは価値と価格は根底的に異なっているということである。
彼は、生活者にとっての価値とは、結婚して子どもを産み、育て、そして背かれ、老いくたばって死ぬことだといいたいのだろうか。たぶん、そういうことではないだろう。
人間が、普通に生活していて、一生涯を生きていくということの意味の重さは、知識を積んだり、事業に成功して大金持ちになったり、会社で役職に就いたり、政治家になって権力の階段を上ったりすることとは無関係であるといっているのだ。
後者は、並外れた努力や研鑽を積めば、誰にでもできることだが、そういった法則が支配する世界と、地縁や血縁や健康や偶然が支配する自分の力の及ばない場所で生涯をまっとうする世界は異なる次元に属しているということだ。
自力の及ばない場所で、なお生涯をまっとうすることの意味の重さは、人間を、自然や歴史の前で慎み深くさせる。そうすれば、歴史が積み上げてきた家族の歴史や、共同体の習俗が、なぜ生まれてきたのかを知ることになる。
意識的にであれ、無意識的にであれ、普遍的なものに寄り添うことで、一過的な現象に過ぎないものや、幻想でしかないものを見分けることが可能になる。つまり、普通の市井の生活は、思想的な拠点として、知識や経済といったものを相対化することができるということである。
そういう思想が1960年代、70年代には確かにあって、多くの知識人たちが自分たちの知的な上昇欲求を相対化したのである。それはまた、金銭一元的な商品交換の世界に対する、オルタナティブな世界の提示でもありうるだろう。生活者は、必ずしも経済合理的に行動しない。
ただし、この場合の経済合理性とは、短い時間スパンのなかで、損得勘定第一を目的とした上での経済合理性ということに過ぎないのであって、長期的にみれば極めて合理的と思われる行動をしている場合が多いのである。
たとえば、繁盛している商店街の人々をみていると、彼らひとり一人は、競争優位の市場を生き抜いて、店を拡張し、同業他社を駆逐するような行動を取ろうとはしていないようにみえる。
同じ商店街のなかに、複数の同業商店があったとしても(実際にたくさんある)、たとえば資本の度合いによってヒエラルキーをつくったりはしない。彼らは、むしろ助け合うことで地域の振興に寄与しようとする場合が多いのだ。つまりは、共存共栄のための地域的棲み分けをしているようにみえるのである。
これは、大田区にたくさんある零細企業が生まれたときに、一方に下請け、孫請け、ひ孫請けのシステムがあったのだが、もう一方に横請けという企業同士の互助的分業があったのに似ている。
どちらの場合も、自分の事業が突出するよりは、自分が商売をさせてもらっている「場」や「縁」を盛り立て、大切にすることが優先される。だから、個々の店舗においては大きな成長はないが、定常的な「場」の力が働いて、それぞれの店舗が長生きするのを助けているのである。
グローバリズムの結果として、その商店街に全ての商材を揃えた大型店舗が出現する場合がある。大型店舗は、大量仕入れ、大量販売が可能なので、当然仕入価格も地場の路面店よりは安くできる。流通も、地球規模で行えるために、有利な条件で品ぞろえすることが可能になる。
しかし、その代償として地域の路面店は閉鎖に追い込まれる。こういうケースが、アメリカでウォールマートが進出した地域に頻繁に観察された。ウォールマートは世界中に展開するほかの地域の店との比較において、その店舗が非効率的であると判断すれば、いつでもその地域から撤退する。
こうして、全米のいくつかの地域の消費者も、小売業者も打撃を受けたのである。ウォールマートにとっては、「場」は大切に守り育てるものではなく、いつでも交換可能なアノニマスな消費者の集合地でしかないのである。
人口減少時代を迎えた日本経済にとって、活発な商店街の定常経済には、学ぶべき多くのものがある。商店街を律しているのは、それぞれの商店主が、意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ身につけてきた、強固な生活者としての思想である。
そして、このおそらくは江戸期の職人の思想から接続されてきた生活者の思想は、経済成長路線のなかで育まれた日本人の価値観と、その子どもであるグローバル志向、経済成長至上主義の思想に対抗しうる有力な思想拠点になるだろうと私は思う。
それは、グローバル経済か、ローカル経済か、あるいはレッセ・フェールかケインズ主義かという決着のつかない経済理論上の二者択一とは別の視点を提供することになるのだろう。
平川克美(ひらかわかつみ)
1950年7月、東京大田区生まれ。1975年に早稲田大学理工学部機械工学科卒業、1977年に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを内田樹氏と設立し、代表取締役となる。2001年5月にリナックスカフェを設立し、代表取締役に就任。2011年4月に立教大学特任教授。2014年3月に隣町珈琲店主。2016年4月に立教大学客員教授、早稲田大学講師。