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World View

包装文化の根----疑うことのできない一体感

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 「水は方円の器に従う」との言葉がある。「器」がパッケージだからというわけではなのだが、何度となく紹介してきた言葉である。文字通り、「水」を主語と考えれば「水は器の形を選ばない」ということになるが、意味は「朱に交われば赤くなる」に近いようである。
 いにしえの言葉に「依報(えほう)あるならば必ず正報(しょうほう)住すべし」とあるが、「われわれは生かされている」と先人たちの多くが共通した認識を示すことも同じであろう。自らを生の主体的に生きるならば、われわれは「正報」であり「水」である。
 であればこそ自らの「依報」であり、「器」とは何かと考えてみる必要はあろう。誰しも様々な「器」を考えつくとは思うが、根本的には宇宙であり、地球環境である。その大きな営みの中で、われわれも誕生し、何とか進化しつづけて来たことに疑問の余地はない。
 そして自然から「器」の役割や大切さを学び、それを模して生活や社会を組み立てて来たといえなくはない。型や躾、組織や仕組みには少なからず、水を形づける何かがある。つまり内面化する働きがある。それを、単に新旧や合理性、理解の有無などで蔑ろに考えては心に大きな支障を来すことになる。
 今回は少々難解となって恐縮だが、そのことを指摘した河合隼雄の「生と死の接点」(岩波現代文庫)の抜粋を紹介したい。東洋は「母性原理で『包含する』機能を根本特性とする」とは、日本が"包装文化の国"と呼ばれる意は深い。
 
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 現在における、神に対する儀式の意識化の問題は、極めて困難な状況を提出する。そこには、人間世界の矮小化に伴って、異なる神々の衝突を引き起こすからである。
 そこで現代人として、神の像を単純に外在化して、キリスト教会にゆくか、仏教の寺に行くかなどという問題として受け止めるのではなく、われわれの意識の在り方として、どれがどのような意味を基盤として確立しているか、あるいは、どのような枢軸を中心として展開しているのかが問題となってくるのである。
 そして、周知の如く東洋における軸と、西洋における軸は明らかに異なっており、われわれはどのような軸を現代人として選択するかという課題を背負わされているのである。この問題を考えてゆく上で、老若、男女の軸はわれわれの前に高い象徴的な意味をもって立ち現われてくる。
 ここにまず「古沢版阿闍世物語」とでも言うべきものを紹介することにしよう。古沢※が1953年、日本教文社刊「フロイト選集」第三巻「続精神分析入門」の訳者あとがきに述べているところによると、物語は次のようになる。
 王舎城(おうしゃじょう)の頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)の王妃、韋提希(いだいけ)は子どもが無いうえに、年老いて容色が衰えてきたので、王の愛がうすれるのではないかと案じていた。王妃はある日仙人に子どもを授かるお願いをした。
 仙人は言うには、仙人が3年後に死んで、王妃はみごもり、立派な王子になって生まれてくるということであった。王妃はその3年が待ち切れず、仙人を殺害する。仙人は死に際に、「わたしがあなたの腹に宿って生まれた子は将来かならず父親を殺す」と予言する。
 こうして王妃が生みおとしたのが阿闍世(あじゃせ)である。阿闍世は立派な青年になるが、何となく気分がすぐれない。このときに釈迦の敵対者、提婆達多が阿闍世に対して、その前歴を語ったので、彼はまず父王を幽閉する。
 しかし、王妃は瓔珞(ようらく:インドの装身具)に蜜をつめて、ひそかに王に差し入れていたので、王は生きながらえる。一週間後に、阿闍世は母の行為を知って怒り、母を殺そうとする。ところが、大臣によって押しとどめられ、ついには流注という病気になってしまう。かくして、阿闍世の苦悩は深まるが、釈迦によって救済されることになる。
 このような物語を踏まえて、古沢が主張するのは、次のようなことである。フロイトが主張する人間の罪悪感は、子どもが父親殺しという大罪を犯してしまい、それに対する罪意識を土台として形成されていると考えるが、これに対して、阿闍世の物語に示されるように、子どもが自分の罪を許されることによって、むしろそこに罪意識が生じることもある。
 己の罪に対して、あくまでもそれを意識し処罰をおそれるという態度と、己の罪を許されたが故に、罪悪感を感じる態度と、宗教的な次元における根本的に異なる2つの態度、ひいては、神の在り方の相違を指摘したことになる。
 つまり、前者における神は、罪を罰する厳しい神であり、後者における神は、すべての罪を許す神である、と考えられる。この問題は、東洋と西洋の宗教、ユダヤ=キリスト教の神の姿と、仏教のおける仏の姿の相違へとつながってくるものである。
 東洋と西洋の神の姿の差は、阿闍世の呼びかけに答える仏の声と、ヨブの答える神の声を比較するとき歴然としてくる。「涅槃経」によると、阿闍世は父親を殺したのであるが、彼はそのような己の犯した罪におののき、流注という病に苦しんでいる。
 彼は罪のない父を殺したことによって地獄におちることは必定で、仏でさえ自分を救うことはできないと思っている。しかし、これに対する仏の説法は彼の想像を絶した次元のものであった。
 「三世を見透しています仏陀が、大王が王位の為に父を殺すべしということを知りながら、父王の供養をうけて父王に王位に登るべき果報を得べき因縁を与えた以上は、大王が父王を殺したとてそれを大王ばかりの罪ということはできぬ。大王が地獄に堕つるときは諸仏もともに堕ちねばならぬ。諸仏が罪を得ぬならば、大王独り罪を得る筈がない。よって大王の地獄に堕つるをば仏陀は救わねばならぬ」と、仏の声は語ったのである。
 つまり阿闍世がいかに罪を犯そうとも、それは仏の責任であり、仏はすべてを救ってくれる、というのである。これに対して、ヨブの場合はどうであろうか。「ヨブ記」に示される神の声は、阿闍世の場合とはまったく対称的である。ヨブは「義人」と呼ばれるだけあって、まったく正しい生活をしている。
 しかし、このヨブに対して、神はつぎつぎと苦しみを与える。彼は財産を奪われ、家庭を破壊され、彼自身が重病に苦しめられる。ヨブが「いやな腫物」に苦しむところは、阿闍世が流注に苦しむのと対応している。皮膚の病に苦しむとき、われわれは、自分の醜さ汚らしさが、外界に顕われ、一見するだけで他人に悟られてしまうような苦しみを味わわなければならない。
 何の罪もなくただ苦しみを与えられている人間に対して、突然に呼びかけてくる神の声は、仏陀の声とは著しく対照を示している。神はヨブの苦悩に対する何らかの慰めの言葉を掛けていない。神はむしろ、「腰に帯して、男らしくせよ」と、ヨブが男としての自覚をもつように呼びかけている。
 この両者の差を、一般的にも言われているとおり、父性的な宗教と母性的な宗教と考えることができる。ここにはたらいている父性原理は、「切断する」機能とその根本とし、母性原理はこれに対して「包含する」機能を根本特性としている。
 ヨブに対する神は、神と人とを峻別する厳しさを示した。阿闍世に対する仏陀は、父親殺しの罪を犯した人間に対してさえ、もしも地獄におちるなら、共におちようとするほどの包含するはたらきを示している。父なる神は、神と人とを峻別するように、善と悪、光と闇などの区別を明らかにする。
 このような区別の上に立って、神の定める律法を守るものには救いが約束され、そこに神と人との契約が成立する。仏陀は人と契約など結ばない。それでは仏陀はすべてを「包含し」すべてを救うのであろうか。それなら、地獄など無いはずである。仏陀の救いの基礎には母と子との一体感のような、疑うことのできない一体感が存在している。このことを体感として感じたものは誰でも救われるのである。

河合隼雄 (かわいはやお)…1928年6月23日兵庫県生まれ。本の心理学者・心理療法家・元文化庁長官。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。文化功労者。日本におけるユング心理学の第一人者とされ、1988年に日本臨床心理士資格認定協会を設立し、臨床心理士の資格整備にも貢献した。箱庭療法を日本へ初めて導入し、日本で普及させた。2007年7月19日に死去。
※古沢平作…フロイトのもとで学び、日本の精神分析学の草分けとなった医学者であり、精神科医。1931年に「罪悪感の二種」という論文を書き、フロイトの考えに1つの異論を唱えた。