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World View

自信と余裕が作品に深みを生む

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 「人は環境によってつくられる」では些か言い過ぎの感もあろうが、「依報(えほう、環境の意)あるならば必ず正報(しょうほう、人の意)住すべし」との言葉もあるように、人も環境に依存した生き物であることは間違いない。「わがままな人、だらしのない人は、終生の健康は得られない」と誰かに聞いたものだが至言である。
 自分本位に環境と対峙しても、意志なく環境のままに流されても、確かに終生の健康どころか、命さえ危ういことは歴史が示している。「環境」とは自然だけではなく、人や組織、社会など身の周りを幾重にも取り巻くものである。では、終生の健康が得られる環境との正しい関係を保つにはどうあるべきか。
 「正しい」との表現が適切かは少々疑問を残すところだが、なかなかの難題であろう。孫子の兵法には、かの有名な一節「敵を知り己を知らば百戦危うからず」がある。"兵法"ゆえに「敵」とは表しているが、広く言えば"対象"である。人からみれば環境はまさしく対象であるから、兵法に即して考えれば「環境」と「自身」を"知る"ことである。
 「知った」と思えば"エゴ"に通じかねないので、「知る」よりも「知ろうとする」と表した方が適切かもしれない。その意味で、「環境を知り自身を知らば(終生の健康はもとより)百戦危うからず」となろうか。さて「百戦危うからず」だけが手つかずとなったが、本誌流にあえて言えば「どこにあっても人としての自信と誇りを失わない」となるに違いない。
 そこで、今回は日本画家として有名な平山郁夫氏の言葉(「ぶれない」三笠書房)を紹介する。若き日に平山氏は、はじめてのヨーロッパ留学で「圧倒され、打ち負かされそうになった」と吐露し、「自分の色を確立するためには、学ぶことを含め、多くの経験を積むことです」と述べている。画家として、日本人としての強みをどこに求めたのか。包装にも通ずる平山氏の兵法の一端をここで学びたい。
     ◇
 自然界には、さまざまな色があります。ひと口に「木の葉の緑」といっても、一つではありません。同じ緑でも、薄緑があったり、黄味がかった緑もある。葉っぱによっては、赤が混じっていたりします。新芽のときの柔らかい草色は、やがて薄緑となり、それがだんだん濃くなって秋には枯れて茶色になっていく。春夏秋冬、緑は変化する。
 また、時間帯や太陽光線のあり方によっても一種類の色ではなく、どんどん変化し、複雑で微妙になっていきます。「木の葉は緑だ」というように決めつけられるものではないのです。空の青さにしてもそうでしょう。天気のいい日の真っ青な空、雲の具合で白っぽくなった空。その空の様子によって、海の色も変わります。
 絵はその一瞬の変化、その感動を永遠化するものです。美しい色の花は盛んに生きている証拠です。その美しさに虫たちも吸い寄せられてくる。黄色の花びらは、補色の紫色でより目立って映え、青色と赤色の組み合わせは新鮮さを表現します。
 命あるものは、みな色彩を得て輝き、その生気がだんだんなくなると枯れて、色を失う。そして、灰色から黒、暗闇へと移り変わり、動かない死の世界に還っていくのです。平安時代の洗練された雅な色と、灼熱の赤道直下の花の毒々しい色は対照的です。色はその質や環境、つまり気温や湿気によっても変ってきます。
 その色を表現するのでも、私のように瀬戸内で生まれ、育った者は「光」を自然に描き出しますが、雪国育ちの人は違うでしょう。このように、生活環境によっても感じ方は千差万別です。アメリカでは木の板をベタッとペンキで塗りつぶしたりするでしょう。合理的かもしれませんが、反自然的とも言えます。
 日本のように木目の美しさを味わったりしません。日本の場合は自然に逆らうのではなく、自然に合わせていくのです。騎馬民族が価値を置くのは、金属や宝石などの素材の材質そのものですが、日本人は割れてしまえばただの土である茶碗などに歴史的な価値を求めます。このように風土が違えば、感性も文化も違ってくる。
 そして、この感性が感動を生んでくれるのです。物事を成し遂げるのは、絵を完成させることと似ているところがあると思います。絵を描くときには、限られた時間の中でひたすら絵筆を動かしていきます。まさに、集中して虚心に手を動かすしかありません。
 けれども、それだけではいい絵は描けない。「絵は体全体を使って」描かなければならないからです。たとえば、大きなグランドに竹ぼうきで人の顔を描け、と言われたとしましょう。このとき、手先だけで描いたのでは小さなものしか描けません。大きく、躍動した顔を描くには、体全体を動かし、走りまわらなければならない。そうでなければ、生き生きとしたものは描けません。このように、体全体を使って虚心に描いてはじめて、躍動感のある絵が描けるのです。
 何事に対するにも、私心を捨て、体全体で虚心に取り組む。学ぶことも同じです。その場しのぎの一夜漬けや、試験のために仕方なくやるといったことでは、いつまで経っても何も身につかない。一過性で終わってしまって積み上げがきかず、真の実力となっていきません。
 誰でも、嫌なことは早く済ませたいもの。そして、ついつい終わらせることだけが目的となり、途中のことなどどうでもいいとばかりに、楽な方向に流してしまうのです。逆に、好きなことなら、いつになったら終わるか、などとは考えないでしょう。やっている途中でいろいろな疑問が出てきたり、新しいことを発見したりしてどんどん楽しくなる。
意欲的に取り組むとはこういうことです。楽しいから、どれだけ回数を重ねても苦にならない。いろいろな興味や知識が連動して歯車がかみ合うように、一歩、また一歩と進んでいく。この蓄積があってはじめて、発展もする。絶え間のない積み重ねが人生を確固たるものにしていくのです。
 絵の例でもう1つあげれば、自分の中に確固としたものを築くと、不思議なことに余裕が生まれてくる。たとえば、絵の中に「余白」をつくることができるようになってきます。少し専門的な話になりますが、「余白」とは、単に絵の中にある空間のことをいうのではありません。余白には「余白をつくることでほかの部分を引き立てる」という意図がある。
 そのためには、描く前に省略すべきものがわかっていなければならない。そして、省略の価値を理解できる世界観と、大胆に省略するこころの余裕も必要となるのです。百ある要素のうち99の要素を消して、たった一つの残った部分に集中して表現する。そして消した部分に余韻を残す。こうして自分に自信と余裕があるからこそ、はじめて自分の作品に深みが出てくるのです。