トップページ > World View
日々の切れ端から成る生きた物語をつなぎ止める パッケージ
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
2020年9月の「敬老の日」を前に、ギネスで世界最高齢認定の福岡市に住む田中カ子さんが117歳261日(9月19日時点)となり、国内の歴代最高齢記録を更新したことが大きく報じられた。明治(1903年1月2日)生まれの田中さんは、大正、昭和、平成、令和と5つの元号を生きて来たわけである。
「仏の寿命・百二十まで世に在すべかりしが八十にして入滅し、残るところの四十年の寿命を留め置きてわれらに与へ給ふ」と仏典にあるようだが、もはや人類が仏の寿命に至ることは夢ではない。ならば「まず臨終の事を習うて、のちに他事を習うべし」との言葉にしたがい、ときに「死」について考えてみるのもよい。
今回は、外科医を退職後に訪問診療医となった小堀鷗一郎氏の著書「死を生きた人びと」(みすず書房)からその一部を紹介する。小堀氏は著書の「あとがき」に、ロシア・女性作家のリュドミラ・ウリツカヤ氏の言葉を引用されている。
それは、「私は本当の作家ではありません。この本は小説ではなくコラージュです。私は自分の人生や他の人々の人生からハサミで断片を切り取り、『糊付けもせずに/日々の切れ端から成る生きた物語』を貼り合せつくっているのです」(前田和泉訳「通訳ダニエル・シュタイン」新潮社)。
小堀氏は「私も本当の作家ではない」「この本もコラージュです」というのである。まさに著書は診療医として関わった在宅死355人に止まらず、家族や周りで支える人びと、さらには時間をさかのぼって「死を生きた人びと」の断片を切り取ったコラージュである。
そのコラージュのなかの一断片に、転院に次ぐ転院の闘病生活の末に夫が余命宣告され、移ったホスピス病棟で主治医に「ご主人はどんな人ですか」と問われるエピソードがある。夫人は、病状について質問されるとばかり思い、戸惑いすぐには答えに窮したようである。
「どんな人ですか」と、もう一度頭のなかでくり返したとたん胸に熱いものがこみ上げ、「優しい人でした...」と答えるのが精一杯だった。「この人は技師ではなく、病気になった人を治してくれる人だ!」と感じ、今まで一度も感じたことのない安心感を覚えたという。
* * *
病院死から在宅死へのパラダイムシフトを実現するためには、患者を看取るのは医師ではなくて家族であるという認識の転換、つまりコペルニクス級の発想の転換が必要である。
堀之内病院で13年間に関わった在宅死355名のなかで、私自身が看取った患者は176名である。ただし、そのうち、死の瞬間に私が患者の傍らにいた事例はわずか5名にすぎない。そのうち2名は、唯一の看取りを行なう肉親が1名は知的障害者、1名が全盲であった。
また2名は、かなり進行した認知症の妻が残されていた場合で、いずれの場合も看取る人間が事態を把握できない状態であった。残る1名は通常の家族構成(健康な妻との2人暮らし)であったが、悪性腫瘍の末期で苦痛を訴えたため緊急往診を行ない、鎮痛剤を注射した数風後に死亡した。
いずれの場合も、現代人が"臨終の場"として頭に思い描くような、死に臨んだ患者を中心に悲しみに暮れる家族や、厳かに一礼して臨終を宣言する白衣の医師団、といった情景とはほど遠い世界であった。残りの171名は、医師である私ではなく、家族に看取られて亡くなった。
通常、在宅患者の死は長い療養生活のあとに訪れるものである。私たちの地域医療センターでは、死亡した患者355名に対して訪問療養を行なった期間は平均4年6ヶ月である。つまり私たちは、4年6ヶ月死にゆく患者の傍らに存在することになる。
その間、私が折りに触れ「患者を看取るのは医師ではなく、家族です。患者が息を引き取るとき、私が傍らで『お亡くなりになりました』と頭を下げることに意味があるとお考えですか」という問いを家族に投げ掛かけていることは述べた。多くの患者や親戚は、療養が始まった当初は、死に向き合うことができない。
それでも、長い時間を掛ければ「コペルニクス級の発想の転換」は可能である。次の文章は、臨終に立ち会う親族と、立ち会わない医者のあり方を具体的に描いている。文中に登場する訪問診断医は、在宅医療のパイオニアの一人である新田國夫である。
夜、10時過ぎに先生は帰る。10時20分、呼吸が少し速くなっている。まだ手は動く。まだタオルケットを撥ね除けようとする。夫の様子をみて、「夜中になったら私にだけ電話してください。朝になって明るくなったら師長に色々やらせましょう」といって帰られた。
わたしも、はい、そうしますと、やっぱりなんだか現実味のない返事をしてしまったが、今になると、この要するに「亡くなったら、呼んでください」は、医者としてはすごい言葉であるまいかと思う。これが病院でのことならどうだろうか。
きっと、あの処置もして、この処置もして、色々周囲があわただしく動くのだろうなと想像してみると、そのすごさに気づく。百戦錬磨の訪問診療医ならではの一言である。(中略)しかし、「家族とともに看取り」をする「訪問診療医」の役割は、いまわのときにやって来て、心臓マッサージをするのが役割ではない。
家族が落ち着いて、本人がなるべく苦しまないで、穏やかに家で最後のときを迎えられるようにセッティングするのが、訪問診断医の仕事なのだ。彼は最後のときに手を下しはしない。死にゆく人の最後のときは、その人自身と家族とその環境に委ねているのだ(三砂ちづる「死にゆく人のかたわらで」(幻冬舎、2017年)。
新田と同じく在宅医療のパイオニアの一人である蘆野吉和も「看取るのは家族」という持論を展開している。またその次の萬田医師の看取りにも同じ哲学が明らかに示されている。
私にとって病院での看取りと自宅の看取りはあまり変わりません。どちらでも看取るのは家族です。看取りの仕方を家族によく指導し、医師と看護師が同席しないことの了解をとり、息を引き取ったら少し時間をあけて訪室し死亡確認します。その後しばらく家族だけの時間をもち、身体の清拭はできるだけ家族も参加するように勧めます(蘆野吉和「地域とともに歩む医療」「週刊医学界新聞」第2819号、2009年2月23日)。
ゆらゆらとタバコの煙が天井付近まで漂った。その煙が消えると呼吸が弱くなった。臨終は迫っていたが、最後の別れに医師は邪魔だなと萬田は腰を上げた。ふと目線の合った娘に彼は微笑みかけ、「俺は席を外します」と団地の階段をそのまま一階へ降りた。(中略)
数分後に団地の一室へもう一度戻ると、六畳間のベッドで添い寝し、父親を交互に抱きしめる家族の風景が目の前にあった。6月4日午前6時すぎだった。(中略)誰も泣き崩れていない。何かをやり遂げたような充実感が感じられる。笑顔。
モニターもない。看取りの儀式も死亡確認も死亡宣言もない。しない。俺はいつもしない。家族はわかっているから必要ない。(「ご臨終です」と)宣言しなきゃ区切りが付かないような看取りはしたくない。家族が肌で亡くなったことを感じられればいい(吉原清児「奇跡の病院 理想の医師」「文藝春秋」2008年8月号)。
私にとって印象的なのは、両医師が共通して患者が息を引き取る瞬間に医師が故意に席を外すことである。この徹底した方針がどこに由来するかは想像するしかないが、外科医師として死と向き合っていた両医師が、延命を優先する病院における終末期医療の不毛を長年の間体験したことに由来するものではないか。
小堀鷗一郎(こぼり おういちろう)
1938年2月、東京生まれ。東京大学医学部を卒業後、外科医として食道癌を専門とし、東京大学医学部附属病院第一外科、国立国際医療研究センターに勤務。国際医療研究センターで病院長を務めて、定年退職後、堀ノ内病院に赴任。在宅患者への訪問診療に携わる。2018年、自身の訪問診療医として看取り経験を基にした著書で第67回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。母方の祖父は作家の森鷗外。