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十全に生きる心身のバランスが価値創造の持続力
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
過去最多41個のメダルを獲得した「リオ オリンピック2016」を終え、いまだ興奮冷めやらぬなか「リオ パラリンピック」の開幕を迎えた。いやが上にも日本人選手の活躍に期待の集まるところであろう。また勝敗はともかく、あらゆる競技を通じ心揺さぶられるのは十全な精神と身体の挑戦である。
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」ともいわれるが、その精神は単に「造られた身体に宿る」といったものではなく「十全に生きること」によって表れる、整った心身のバランスのように感じられた。そこには他に代えがたい充実があり、また他への感謝がある。
歳を重ねる毎に、心に深く染み入る1つの歌がある。それは、かの石川啄木の「ふるさとの/山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山は/ありがたきかな」である。父母の恩や姿とダブらせているといった面もあろうが、意識の水面下には郷土(自然)に育てられたとの確かな実感があるように思う。
「栴檀は双葉より芳し」とのことわざに始まる、(その信憑性には自信はないが)非常に興味深い話がある。ことわざの意は「発芽から芳香を放つ栴檀にたとえて、人物となる人は幼いときから優れた才能を示す」というものだが、実は「栴檀」は双葉どころか成木になっても香りは小さい。
ことわざの「栴檀」は「白檀」のことを指しているという。いうまでもなく「白檀」はインドを原産地とし、香気を放つ(高貴な)香木として紀元前から薬用や仏教儀式などに利用されてきた。「栴檀」はその中国名であり、(けして中国に限定するわけではないが)栽培(生息)地が代わると、名前だけではなく香気の質・量ともに(白檀とは別物)変わるという話しである。
いにしえの言葉には、「蓮はき良きもの泥より出でたり、栴檀は香ばしきもの大地より至り、桜は面白きもの木の中より咲き出づ」とある。栴檀の香気は大地に由来するということであろう。これは大地の効用ともいえるもので、我田に引水すれば、まさしく「容器の効用」ともいえる。
われわれにとっての郷土(自然)であり、心にとっての身体こそが「容器」といえるものである。今回は、作家の村上春樹氏の自伝的エッセイ「職業としての小説家」(スウォッチ・パブリシッング)から、その一部を紹介したい。そこに、村上氏は「『十全に生きる』というのは、すなわち魂を収める『枠組み』である肉体をある程度確立させ、それを一歩ずつ着実に前に進めていくことだ」とつづられている。
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小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下がっていくことです。心の闇の底に下降していくことです。大きな物語を語ろうとすればするほど、作家はより深いところまで降りて行かなくてはなりません。
大きなビルディングを建てようとすれば、基礎の地下部分も深く掘り下げなくてはならないのと同じことです。また密な物語を語ろうとすればするほど、その地下の暗闇はますます重く分厚いものになります。
作家はその地下の暗闇の中から自分に必要なものを----つまり小説にとって必要な養分です----それを見つけ、それを手に意識の上部領域に戻ってきます。そしてそれを文章という、かたちと意味を持つものに転換していきます。その暗闇の中には、ときには危険なものごとが満ちています。
そこに生息するものは往々にして、様々な形象をとって人を惑わせようとします。また道標もなく地図もありません。迷路のようになっている箇所もあります。地下の洞窟と同じです。油断していると道に迷ってしまいます。そのまま地上に戻れなくなってしまうかもしれません。
その闇の中では集合的無意識と個人的無意識とが入り交じっています。太古と現代が入り交じっています。僕らはそれを腑分けすることなく持ち帰るわけですが、ある場合にはそのパッケージは危険な結果を生みかねません。
そのような深い闇の力に対抗するには、そして様々な危険と日常的に向き合うためには、どうしてもフィジカルな強さが必要になります。その程度必要なのか、数値では示せませんが、少なくとも強くないよりは、強い方がずっといいはずです。
そしてその強さとは、他人と比較してどうこうという強さではなく、自分にとって「必要なだけ」の強さのことです。僕は小説を日々書き続けることを通じて、そのことを少しずつ実感し、理解してきました。
心はできるだけ強靭でなくてはならないし、長い期間にわたってその心の強靭さを維持するためには、その容れ物である体力を増強し、管理維持することが不可欠になります。僕がここで言う「強い心」とは、実生活のレベルにおける実際的な強さのことでありません。
実生活においては、僕はごくごく当り前の出来の人間です。つまらないことで傷つくこともあれば、逆に言わなくてもいいことを言ってしまって、あとでくよくよ後悔することもあります。誘惑にはなかなか逆らえないし、面白くない義務からはできるだけ目を背けようとします。
しかし小説を書くという作業に関して言えば、僕は一日に五時間ばかり、机に向かってかなり強い心を抱き続けることができます。その心の強さは----少なくともその多くの部分はと いうことですが----僕の中に生まれつき具わっていたものではなく、後天的に獲得されたものです。
僕は自分を意識的に訓練することによって、それを身につけることができたのです。更に言うなら、もしその気にさえなれば、それは「簡単に」とまでは言わないまでも、努力次第で、誰にでもある程度身につけられるものではないか、という気もします。
もちろんその強さとは、身体的強さの場合と同じように、他人と比べたり競ったりするものではなく、自分の今ある状態を最善のかたちに保つための強さのことです。僕はただ、フィジカルなものごとにもっと意識的になった方がいいのではないかと、ごくシンプルに、実務的に提案しているだけです。
そういう考え方、生き方は、あるいは世間の人々の抱いている一般的な小説家の像にはそぐわないかもしれません。僕自身こんなことを言いながら、だんだん不安に襲われてきます。
自堕落な生活を送り、家庭なんか顧みず、奥さんの着物を質に入れて金を作り(ちょっとイメージが古すぎるかな)、あるときには酒に溺れ、女に溺れ、とにかく好き放題なことをして、そのような破綻と混沌の中から文学を生み出す反社会的文士----そんなクラシックな小説家像を、ひょっとして世間の人々はいまだに心の中で期待しているのではないだろうか。
あるいはスパイン内戦に参加し、飛び交う砲弾の下でぱたぱたとタイプライターを叩き続けるような「行動する作家」を求めているのではないだろうか。穏やかな郊外住宅に住み、早寝早起きの健康的な生活を送り、日々のジョギングを欠かさず、野菜サラダを作るのが好きで、書斎にこもって毎日決まった時刻に仕事をする作家なんて、実は誰も求めていないんじゃないか。
僕が思うに、混沌というものは誰の心にも存在するものです。僕の中にもありますし、あなたの中にもあります。いちいち実生活のレベルで具体的に、目に見えるようなかたちで、外に向かって示さなくてはならないという類のものではありません。
「ほら、僕の抱えている混沌はこんなにでかいんだぞ」と人前で見せびらかすようなものではない、ということです。自分の内なる混沌に巡り合いたければ、じっと口をつぐみ、自分の意識の底に一人で降りていけばいいのです。
我々が直面しなくてはならない混沌は、しっかり直面するだけの価値を持つ真の混沌は、そこにこそあります。まさにあなたの足もとに潜んでいるのです。そしてそれを忠実に誠実に言語化するためにあなたに必要とされるのは、寡黙な集中力であり、挫けることのない持続力であり、あるポイントまでは堅固に制度化された意識です。
そして、そのような資質をコンスタントに維持するために必要とされるのは身体力です。実に面白みのない、本当に文字通り散文的な結論かもしれませんが、それが小説家としての僕の基本的な考え方です。
村上春樹(むらかみ はるき)
1949年1月、京都市に生まれ、兵庫県西宮市、芦屋市で育つ。小説家、米国文学翻訳家。1968年、早稲田大学第一文学部に入学、演劇科へ進む。早稲田大学在学中にジャズ喫茶を開店。1979年、「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞しデビューし、1987年、「ノルウェイの森」を発表。他の主な作品に「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」など。