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生かす。生かされる。----「命は1つ」との大きな視点
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
葉の色づきとともに、深まりゆく秋が感じられる。食欲の秋であり、読書の秋であり、そしてラグビーワールドカップで湧くスポーツの秋でもある。四季それぞれだが、英国の詩人ブラウンは「季節のなかでいちばん喜びをもたらしてくれるのは----夏であり、秋であり、冬であり、春である」と歌う。
「一は万が母」であれば、四季もまた自然の千変万化の変化相であって、われわれもその一部として変化しているともいえよう。たとえ農業を例にとらずとも、先の食欲や読書、スポーツの"秋"といったことは、人として主体的に自然の変化を取り入れていることである。
それができるのは、そこ(自然と人との間)に何かしらの確かなつながりを感じているからであろう。ときに人もモノも自然も、その一切の全てが「命」という次元では1つであると思えてくる。「価値観の転換」といっても、それは「一は万が母」といった「命」の次元に立つことではなかろうか。
「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である」とのアインシュタインの言葉は有名だが、それは探究のベクトルの向きが内か外かの違いである。本来は「人が善く生きるため」という目的で補完し合う関係にあるものである。
言いかえれば、右目と左目(右足と左足)が各々でちぐはぐな動きをしていては、本来の役割を果たせないのと同じである。知ることも、探究することも大事だが、それらは本来の役割(使命)を果すための手段にすぎない。今回は、砂村豊氏の随筆「母の遺言」(文芸社)の一部を紹介したい。
そこに理学博士の堀伸夫氏のこんな言葉が引かれている。それは「こうして認識される世界の背後にあるものとしての全体者と、認識する自己の根底にあるものとしての全体者とが考えられ、究極において両者は一致するのである」というものだ。
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山の色、即ち木々の色彩を注意深く観察しておりますと、その移り変わりに大変驚かされます。まるで山の木々が、示し合せでもしているかのように、春から夏にかけて同程度に緑色を少しずつ増していきます。それでいて、木々の一本一本は、あくまで独立しており、枝ぶりなんか全部違う。
ところで、私は洋画をかなり観て参りましたが、その中で日本人と欧米人の相違というものを痛感させられます。ものの観方、感じ方、発想の基本的相違、合理主義と非合理主値、顔形----これだけ文化、生活の上で欧米化の進んできた日本人ですが、本来の西欧人との差違は依然、小さくないように思われます。
ちょうど、あの山の樹木、葉や草が、微視的には皆違っているようなものかもしれません。しかも、それでいて西側の人も、東側の人も、目が2つ、鼻が1つ、手足が2本ずつという意味では、同じ人間であるわけです。
今、肢体についてふれましたが、よしや何らかの原因で手足を失っても人間は人間、その命の尊厳上は、傷害の有無に関係なく全く同じと考えるべきでありましょう。
何故こんなことにこだわるかと申しますと、後のほうで立ち入って論述することになりますが、このことは「いのち」の偏在性(何処にもある性質)と個別性とか独一性について考える上で、非常に大切なことと思われるからなのです。
ところで、東大教授であった岸本英夫という人は、51歳のときに癌を患い、それ以来7?8年の間に大小20回もの手術を経験します。今日、初期癌は、治療率が極めて高くなりましたが、氏の場合は癌のなかでも恐ろしい「黒色腫」でした。
氏は宗教学の権威ですから、当然ながら、様々な宗教を熟知されていました----無論「死」についても。ところが、「自分の死」というものを、自己の癌疾患を通じて、つくづく考えさせられるようになってみて、それを克服する上で、それまでの学問研究がほとんど役に立たないことに気付かされます。
これは「死」とか「命」というものを従来純粋に客観的に、つまりは自分と切り離されたところで抽象的、一般論的に扱ってきたところによるものでした。似たような体験は、著名な作家で尼僧の瀬戸内寂聴にもあったようです。
瀬戸内氏は、姉の死に際に直面してみて、それまでの読書や死への一般論的取り組みというものが、いかに無力かを思い知らされます。そのとき、ガブリエル・マルセルというフランスのカトリック系哲学者は、瀬戸内に1つの示唆を与えています。
太陽と死は直視できない、といわれますが、「死」というような捉え所のないものを考え、思索を深めていくための手掛かりは、自分の身内とか、自分にとってかけがえのない人の死というものとの密接な関係のなかで追求していくべきである、というのです。
さて、そこで、その「方法」即ち自分自身の命とか死、そして自分にとって極めて重要な、のっぴきならぬ人の命とか死を常に念頭に置きながら、「山の色」を、そして「エントロピーの原理」を考えてみたいと思います。「命は一つ」という物理学上の真理がそれです。
生きとし生けるものすべて、外形や内面の相違を超えて、「いのち」という一点では重なり合う。大きな目でみるなら、生かされている「いのち」は一つ。禅的に表現すれば「多」即「一」とも言えるかと思います。
ところで、日本人というのは西洋人からみますと旧来、哲学的には、ほとんど「考えない」人種であるかのように思われてきました。確かに西欧的思考尺度でみる限り、旧来の日本人は「思想体系といえるほどのものが無いか、極めて乏しい」、「意志表示もあまりしない」、「曖昧模糊とした」民族と思われがちです。
自己(セルフ)を大事にし、そこからものを考え、思想を発展させ、意思表示する西欧人に対し、集団的、社会的なところから、ものを見(考え)る日本人というのは、西側の人からすると容易に理解しがたく、今日ですら幾分「ミステリアスな国民」と思われていないでしょうか。
それ故、日本人は無宗教、ニヒリスティックと見なされることすらあります。しかし、これは西欧の宗教や文化を通じてみた見方でありますから、その枠を取り外して見るならば、文化や宗教を特徴付ける東洋的、日本的感性と呼ぶべきものがないわけではありません。
問題は、特定の感性やものの見方だけを唯一絶対視し、異質なものを敵視し打ち滅ぼすことが「正義」であり、神からの「至上命令」であると考えるところにあり、そこから「宗教戦争」が起きることにもなります。この点は、アメリカ一国主義にもイスラム原理主義にもある危険な排他性です。
この事情を念頭に置いて、再度「エントロピーの原理」即ち「命は一つ」を考えてみたいと思います。「一斉にその色を深めていく山の緑」「命は一つ」。これは、東洋的、日本的感性でこそ、最もよく理解できるところではないでしょうか。
この科学的真理をよく認識することは、愛する者との死別、または自分自身の死を考える上で益となる、と私は信じています。確かに「私」の死は、全世界の消失と事実上同じという見方もできるでしょう。然るに、それは「大いなる命」自体が消滅してしまったわけではない。
それどころか、「不生不滅」という物理的法則に従えば、大宇宙のなかのいかなるものも、何も無いところから突然できたりすることはありませんし、また、どんなものも完全に跡形もなく無くなってしまうということもありません。
死は全く新しいあり方に向けたステップなのである。「死」を直視しつづけていくと、腐敗、悪臭など「死」にともなう「凶」感覚、「マイナス」イメージはすべて「死」に至る過程の付随現象であって「死」そのものではないことが解ってくる。
砂村豊(すなむらゆたか)
1936年、東京生まれ。青山学院大学で組織神学を専攻。高校とYMCAで英語を教えるかたわら、独学で宗教哲学を修める。サンフランシスコ大学で独系米人神学者かつ哲学者のパウル・ティリッヒを研究。現代人の心の交流を目指した「ほかほかメッセージ」を創刊、主幹として執筆。