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World View

包装人こそ、真の意味の現実家たれ!

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 以前、何かのTV番組であの北野武氏が、「緊張しない芸人は大成しない」と言ったことを思い出す。即座に「そうだろう」と、頷かれている人もいるはずである。一方で「なぜ?」と疑問を持つ人もいるに違いない。
 いつも座右に置く本の1つに、隆慶一郎氏の小説「影武者徳川家康」(新潮文庫)がある。
 「事実は小説よりも奇なり」と言われるが、小説もまた"事実"以上に真実を描いているものである。本誌にとって「影武者徳川家康」は、それに部類する小説である。以前にも紹介したと思うが、そこに「徹底した現実家」を表したこんな一節がある。
 それは、「危機を危機としてありのままに受け止め、素早くそれに対応する処置をさぐり、それが終わるとまた悠々と酒を飲む。誰一人無用の恐れ、無用の不安など示す者はいない」というものである。「恐れ」について、さらに隆氏は「恐れるべき時には人並みに、いや人並み以上に恐れる。ただ恐怖の先どりはしない」と綴られている。
 北野氏の言う先の「緊張」も、この「恐れ」に類するものであるに違いない。「人並み以上に緊張はするが、無用の緊張はしない」ということになろうか。「この手の徹底した現実家ほど頼りになる者はこの世の中にいない」と隆氏は結んでいるが、周囲を見わたしても希少な存在であることはいうまでもない。
 今回は、三島由紀夫氏の著書「行動学入門」(文春文庫)を一部抜粋して紹介する。幾つかの事例には時代掛ったところもあるが、時代や国を超えて通じる普遍性がある。また今に必要な大事な真理があると思う。三島氏は「待機」との言葉を用いるが、仏の異名を「能忍(のうにん)」(=能く忍ぶ人)と呼ぶようである。
   ◇  ◇
 行動の経験は、人が考えるほど緊迫に次ぐ緊迫、サスペンスに次ぐサスペンスといったものではないことは、多少とも行動に携わった人ならば、よく知っていることである。危険な航海も、長い長い退屈な船旅の単調な日々の連続の上に、突然嵐に遭遇するときに、初めて危険になる。
 これはわれわれの人生と同じことで、ほんとうの危険度は、危難に瀕するまで高まらず、火山の上で踊っている人の群れのように、いつ噴火するかわかぬものを脚下に踊っているのが人生である。そういう意味で、冒険的行動もまた、人生と同じ退屈、単調、日常性を、圧縮した形でその中に含んでいる。
 しかし、人生と違うところは、行動には一定の目的があり、しかもそれは運命の要素をできるだけ少なくした意識的な目的であって、その目的に向かって準備し、待機する期間が長いということである。猪狩りに行った人の話を聞くと、いざふもとに待ち伏せて、山の上に猪が姿をあらわしてからふもとまで下りてくる時間が、四時間も五時間もかかるそうである。
 その間の待機の時間の辛さは想像以上だと言うが、目の前に獲物があらわれてから手元に近づくまでの間、われわれは様々な期待に囲まれながら、じっと引き金に指をかけ、しかも引金を引いてはならない。その待機の時間の中に、行動というものの有効性が集約してくる。
 もし、有効性を問題にしなければ、四方八方からやたらに弾数を打てば、下手な鉄砲も数打てば当たるで、猪に当たることもあるであろう。しかし、最後のとどめの一撃が猪の急所に当たることが狩人の誉れであり、目標である。そのためにこそ待機がいるのである。
 われわれは一発勝負のために待機の時間を長くする。一発勝負でなければ、待機をしなくてもいいように思われる。そこに行動にとっての自己欺瞞が始まり、トリックが始まる。
 一発勝負をねらわないで、しかも待つことの忍耐を持たないで、次から次へと行動を積み重ねていけば、その一つ一つの行動は薄められ、最後の的確なパンチは弱められ、一身に込められたエネルギーの爆発は、ついに散発的なものとなって、効果を失ってしまう。
いわば待機は一点の凝縮へ向かって、時間を煮詰めていくようなものである。台所で豆を煮ている女のように、鍋のふたがグツグツ言い出しても、豆が煮えるまでふたを開けてはならず、ある一定時間じっくりと煮詰めて、うまい料理をつくろうとするのと同じことである。
 待機は、行動における「機」というものと深くつながっている。機とは煮詰まることであり、最高の有効性を発揮することであり、そこにこそ賭けのほんとうの姿が形をあらわす。賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持っていた人間が、百万円を賭け切るときにしか、賭けの真価はあらわれない。
 なしくずしに賭けていったのでは、賭けではない。その全身をかけに賭けた瞬間のためには、機が熟し、行動と意志とが最高度にまで煮詰められなければならない。そこまでいくと行動とは、ほとんど忍耐の別語である。われわれは、歴史にあらわれた行動家の一つの典型として、那須与一のような人を持っている。
 あの扇の的を射た一瞬に、那須与一は歴史の波の中からさっと姿をあらわし、キリキリと弓をひきしぼって、扇の的の中心に矢を当てると、たちまちその姿は再び歴史の波間に没して、二度とわれらの目に触れることはない。
 彼が扇の的を射た一瞬は、長い人生のうちのほんの一瞬であったが、彼の人生はすべてそこに集約されて、そこで消えていったように思われる。もちろん、それには長い訓練の持続があり、忍耐があり、待機があった。それがなければ、那須与一は、われわれを等しなみに押し流す歴史の波の中から、その頭を突き出して、千年後までも人々の目にとまるような存在にはなり得なかったのである。
 1969年11月17日以降の世間一般の情勢を見ると、全共闘をはじめ、過激派の運動は一応終わりを告げたように見られている。彼らは70年決戦を唱えたのにもかかわらず、次第次第に、70年決戦は前へ前へと繰り上げられ、11月決戦が叫ばれ、その前には10.21が、そしえその前には4.28があった。
 彼らは青年の生理によって、いつも待ち切れないで暴発するという形をとって行動へ進んでいった。もちろん執行部のコントロールする力が不十分であったということも言えようが、執行部自体が次第に忍耐を失い、待機の姿勢に耐えられなくなったということが感じられる。それこそ警察権力の思うつぼであった。
 警察権力は少しでも早く事態を収拾するために、学生をして暴発に急がせることに力を注いだ。彼らが待機に耐えられなくなればなるほど、そのエネルギーは相対的に薄まり、彼らが何度も行動を繰り返せば繰り返すほど、それに従って社会不安を醸成する機運はかえって低まり、集団的行動全体のヴォルテージは低まって、収拾しやすくなるということが警察側の計算であった。
 一人早駆けをすれば、それをつかまえることによって、あとの大部分もつかまえることができた。一糸乱れぬ行動のうちに待機を重ねて、最後の瞬間に、何ら予告せずに暴発するというような恐ろしい力を、全学連も、いや赤軍派ですら、見せることができなかった。
 彼らの観念と行動との大きなギャップ、またことばと行動とのギャップを如実に感じさせた。ことばでもって自分を鼓舞することは常に危険である。長い待機の時間はことばではないのである。行動とことばとの乖離が行動を失敗させるように、ただことばや観念で待機に耐えようとする人間は必ず失敗する。
 坐禅がその間の消息をよく説明しているが、面壁して何時間でも坐っていなければならぬという、あの精神状態には、生き、動こうとする人間の行動を徹底的に押しつぶして、そこに人生の真理に到達する精神的なバネを、たわみ込んでいくという発明がみられる。行動がことばでないと同様に、待機もことばではない。それはただ濃密な平板な、人生で最も苦しい時間なのである。
 われわれは行動しているときには勇気を持つことができるが、待ち伏せのような受け身の状況で勇気を持つことはむずかしい。しかし、あの死と不安の闇の中で持ち続ける勇気こそ、行動にとって最も本質的な勇気なのである。われわれは、一つの時代を闇と考えることも、光と考えることも自由であるが、その中で真の勇気とは何であるかを考えるならば、われわれの行動が何であるべきかも、おのずと明らかになるに違いない。