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生きた言葉(包装)から生まれる世界スタンダード
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
かつて短期留学で渡米しようとしたとき、ある先生に「英語が流暢に話せないことで臆する必要なない。米国に生まれれば誰もが身につくものなのだから」と励ましをいただいた。日本人なら日本語を流暢に話せることは当然であろう。大事なことは話せることではなく、正しく思いを伝えることであろう。
それは意外にむずかしい。思いを言葉にすることはできても、相手のことを知って、思いやる心がなければ伝わらない。今に始まったことではなかろうが、(インターネットの影響もあろう)乱暴な言葉が増えている気がしてならない。「乱暴な」とは、意図せず人を傷つけるような無責任な言葉である。
「自身の思を声に表わすことあり」で、言葉の乱れは心の乱れに通じている。その言葉の乱れは、また世の乱れに通じていくものである。「言葉を大事にする」ということは、そのまま自他の別なく「心を大事にする」ということである。以前にも述べたが、「美しい」という言葉の内実は命への慈しみである。
作家の司馬遼太郎氏のいう「正しい日本語」とは、その意味で「美しい日本語」であると思う。今回は、様々な分野にわたる9人の学識者と対話した司馬氏の対談集「九つの問答」(朝日新聞社)の中から、経済評論家の田中直毅氏との対話の一部を紹介したい。
1995年7月に発刊されたものだが、まったくときを経て色あせる内容ではない。そのなかで、田中氏は「いま日本が抱えている課題を議論するとき、マスメディアを含めて、生きた言葉を使わないですね」という。「生きた言葉」とは、美しい言葉の異名でもあろう。
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田中 松山市の正岡子規記念館に、司馬さんの言葉があって、現代日本の言葉を作ったのが夏目漱石と、森鴎外と子規だと書いてある。現代日本の言葉を作ったのがあの三人とすれば、戦前のあの醜い国家は彼らの言葉でも語れないと思う。どうしようもないシステムの中から荒唐無稽な言葉が出てきました。
司馬 昭和十年前後から氾濫しはじめるんですね。つまり国家総動員法前後、満州事変は昭和六年で、そこから出発しています。明治維新を作った姿勢に、国学派の人がいる。平田篤胤の国学派で、全国組織で大商人や大庄屋が集まってサロンを作り大勢力だった。
彼らは藩に属していなかったから、藩を動かして明治維新を起こすことはできなかったけれど、多くの人が死んでいます。明治政府は太政官と並立して神祇官を置き、彼らをそこに閉じ込め、まずいことに国家神道を作らせた。失敗でした。その系列がある。
もう一つは、朱子学です。明治政府は極めて朱子学的で太平洋戦争が終わるまで、朱子学的な用語ばかりとなった。米英撃滅とか、ほとんど朱子学的奏詞、言辞がつづいた。朱子学は形式だけが真実だと思い込むファナチシズム。誇大な表現を好む学派、水戸学が明治になって国家の教科書に採用されていく。
とくに大正以降は、水戸史観で埋まってしまう。水戸史学は徹底した朱子学でした。京都大学に狩野君山という漢学者がいて、開明的な人でした。戦後に、死の床についている彼に「日本はなぜあんな馬鹿な軍部がはびこり、馬鹿な戦争をしたのでしょうか」と聞いた人がいます。彼は「朱子学だからです」と、ひとこと。同じ漢学者だけに急所をついています。
田中 いま日本が抱えている課題を議論するとき、マスメディアを含めて、生きた言葉を使わないですね。コメの問題でも「一粒も入れない」という。いかに実効的意味がなくて、情感だけを高める作用を持っているか。マスメディアに従事するわれわれは言葉を大事にしなければいけない。
こういう言葉が出てきた時、おかしいと思い、たたかなければいけない。目のウロコを取ることが役割の一つなのに、逆にウロコを張りつけている。
司馬 そうです。言葉は大基本です。英語で言えば簡単にわかるのに、日本語で言うとわけがわからなくなる。日本的なレトリックです。基本的には朱子学のためだといえるでしょう。みんな朱子学を学んだはずがないのに、残っている。江戸時代に朱子学を学んだことは不幸でした。ドイツ的なものと似ているのかもしれない。
田中 いま、日本が国際社会の中でどういう役割を果たすか、司馬さん流に言えば「そろそろ踏み出しますか。覚悟はできていますか」ということになる。踏み出すには世界に起きていることと、何を準備しなければならないかを、平易な言葉でこねくり回さずに言わねばなりません。
政治面を見ても業界用語の羅刹で、普通の人には何が起きているかわからない。こんなマスメディアが跋扈している限り、新しい事態に正対することができない恐れを持ちます。
司馬 その言葉の問題をとらえながら、日本のスタンダードを出さなければなりません。いま、日本が世界に通じると信じる物差しを出せば、コメ問題も内部で自発的に解消していきますよ。スタンダードを出さずにタコ壺に入っている。
日本は本来、スタンダードを持たない国だった。奈良朝、平安朝以来、書物を輸入する以外、ずっと鎖国でしたから。世界の大通りに出たら「あなたの基準は何ですか」と問われますよ。基準がないものだから怖くてしかたがない。
セオドア・ルーズベルトは、新渡戸稲造さんの「武士道----日本の魂」(英文)をよく読んで日露戦争の調停をしたといわれている。基本的には、日本人にはルールがあるということだったんでしょう。新渡戸さんはメッセージを発する国際人でした。
ルールさえ大事にしたら日本が明日やることはわかる。明日やることがわかる国しか、つきあいませんよ。新渡戸さんはルールを書いたが、もう少し大きい物差しを持ち出して、世界の大通りで「私はこの物差しで考え、行動します。国と国とのつきあいもこれです」と示す必要があります。
スタンダードというのは、世界が住みよくなるための交通整理の原則を考えましょう、ということですから、今やらないと得体のしれないマフィアと変わらず、世界の孤児になる。それならまだしも、滅びますよ。
田中 そうした基準のない日本が、第二次世界大戦後、おもに経済面で、国際社会の中で大きな比重を占めるようになった。その最大の理由は、アメリカの作った基準にぶら下がったことです。日本はまさに恩恵をうけてきた。そのアメリカに疲れが見え、いま内向きの時代に入り始めている。
今世紀末までは内向きにならざるを得ない。自画像を点検する時期に入りました。これはサイクルとしてあってもおかしくない。アメリカの役割をだれが担うのか。少なくとも日本が提供できるという増上慢は許されませんが。何がしかの役割を果たさなければお返しすることにはならない。
司馬 今おっしゃたことは、その通りの日本なものですから、聞いているだけで胸が痛くなる。それがつまり正しい日本語です。日本は少なくともモノを売っている。あるいは買っている相手の国に対して形而上的スタンダードを提示すべき時ですね。
アメリカのスタンダードは、アメリカ人の納税者に高くついた。いま、くたびれてきた。こんな国は世界にありませんよ。自分のカネで世界にスタンダードを宣伝し、宣伝しただけでなく何かの形でおカネを渡した。
こんど、ソ連が崩壊したらアメリカのおカネで何とかならないか、ということはもうできなくなっている。ソ連におカネを出す最初の国は日本でしょう。この期間、日本の国会は一度も議論していない。もう一度出直さなければいけない。
旧日本人はやめて新しい日本人として出直さなければ、野たれ死にしかなくなる。日本は非戦で、平和主義であって、しかも積極的なスタンダードを示さなければなりません。
世界に不幸をもたらさないための----幸福をもたらすという新興宗教になってしまうから(笑い)----不幸をもたらさない、それに自分も受け入れ国も幸せになるというスタンダードです。それを早く出さないとまずいですね。
田中 同感です。
田中直毅(たなかなおき)
1945年、愛知県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院経済学研究科修士課程修了。国民経済研究協会主任研究員、評論家。1997年に、21世紀政策研究所理事長。2007年に国際公共政策研究センター理事長。