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「自然」=「命」=「身体」=「個性」=「包装?」
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
たとえ専門誌であっても、ひと言も触れずに(何事も無かったように)やり過ごせないことがある。むしろ「包装」は生活に根差しているものだけに、暮らしの中の人の思いというものを鋭敏に捉えなければならない。それが何であろうと、人の心を大きく揺さぶるものであれば、目を背けることはできない。
2015年の幕開けからパリでのテロ(銃撃)事件とISIL(Islamic State in Iraq and the Levant)による人質(惨殺)事件等々とつづいてしまった。ついに日本人の人質が無残に殺害されてしまったことは、グローバリゼーション影が身に及ぶ実感である。
湯川遥菜さんと後藤健二さんの日本人をはじめ、不幸にも亡くなられた方々に心よりご冥福をお祈り申し上げたい。一方で、こうした一連の事件報道を通じた映像やコメントに接するたび思うことは、映像にもコメントにも身体はないということである。
それだけに時間を経るとともに、それらが多用されるほど身体から遠ざかる思いに苛まれる。別件だが、解剖学者の養老孟司氏は「ぼくをビデオに撮ったものは編集できる。しかし、ぼく自身は編集できない。その違いが全く分かっていない。分かっていないというより考えないようにしてきた」という。
当然ながら、身体はそこでの暮らしの中にあって離れては感じにくい。ましてや考えなければ、感じられようはずはない。今回は、ジャーナリストの筑紫哲也氏と8人(カルロス・ゴーン、養老孟司、加藤周一、緒方貞子、奥田碩、野中広務、北野武、出井伸之)との対論集「この国のゆくえ」(集英社)から、その養老孟司氏との対論の一部を紹介したい。
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(養老)ものすごく大変なことになる。身体というのは、それぞれの人がゆっくり、着実に実行していく分野であるべきで、ぼくはそういう時間に今や入っていると思っています。
そして、それができてくると、いつの間にか、日本人の体の動かし方、今の社会、生活にあった伝統らしいものが、もう一度でき上がってくると思います。ただし、それには時間がかかる。身体のことは、口で説明してもだめなんです。実際に自分でちゃんと体を使ってみなければわからない。
サッカーブームなどもそうですが、今は身体に人気があるんです。でも「頭」はいくところまでいったせいか、さして人気がない。頭というのは、「情報」といわれるものです。情報というのは限度が見えているどころか、ぼくはすでにいき過ぎたと思っている。
よく「情報は変化し続けるが、人間のほうは変らない」といわれます。しかし、それは実はあべこべで、人間は日々変化しつづけれど、情報は変化しないんです。
「万物は流転する」という言葉がありますが、人間は寝ている間を含めて、成長や老化をしているわけですから、変化をつづけている。「万物は流転する」というのはヘラクレイトスの残した言葉で、一字一句変わらないまま今も残っている。
そういうふうに永久に残ってしまう言葉が「情報」です。今はこういうインタビューをテープやビデオに撮って、何度でも聞いたり観たりすることができます。つまり、それは「情報」になってしまうわけですが、今日、筑紫さんと二人で話しているこの状態は、2度と還ってこない。
情報化社会というのは、2度と還ってこない状態がいつの間にか消えてしまう世界なんです。情報化社会では人は変っていない。だから、筑紫さんはいつまでたっても、「ああ、テレビでよく見るあの人」なんです。
(筑紫)なるほど(笑い)
(養老)「情報化社会」というのは、いい換えれば「意識中心社会」「脳化社会」ということで、日々刻々と変化している生き物である人間が、「情報」と化してしまっている状態です。そういう世界は、ある意味でものすごく暮らしにくい世界です。
今は基本的に生まれてから死ぬまで、名前を変える人はいません。だけど、昔の人は人間が変わらないなんてバカな思い込みがなかったから、人生のそれぞれの時期によって名前を変えていた。
だから、名前を変えろといっているわけではないんですが、問題は「情報化社会」「脳化社会」では、人間が変わらないという認識が、がっちりとできてしまったことです。
(筑紫)情報は不変、人間は流転なんですね。
(養老)そうです。それから、最近は「個性」とか、そういうことをよくいいますが、人間の脳というのは、個人の間の違いを無視して、他人との共通性を徹底的に追求しながら進化してきたものです。
だからこそ、教育とか文化、ジャーナリズムが成り立つわけで、いずれは通じるとか、少なくとも今は興味がないけれども、関心を持てば理解できる、といったような認識が生まれてくる。ところが、そうでない状況を脳がつくってしまったら、それは病院いきです。
みんなが笑っているところで泣いているとか、みんなが泣いているお葬式で大声で笑っているなんていうのは、どう考えても病院行きですね。会話をする場合でも、他の人たちと違う「個性」を存分に発揮してしまったら、何といっているのか全然分からない、ということになってしまう。
これじゃ、ダメでしょう。おもしろいことに普段皆さんがお考えになっている「脳に個性がある」というのは、私は逆だと思います。個性は身体にあるといいたい。本来の個性というのは、はじめから個人個人に与えられているもので、それ以上でも、それ以下でもない。
イチローにせよ、中田にせよ、若い人で非常に個性的な人はみな、身体が個性的ということです。じゃあ「心」の方はどうかといえば「人の気持ちがわかる」とか、「人の心がわかる」ということが、人間のもっとも大事なことなんです。
ところが日本の教育は人の気持ちを理解するという大切なことをおろそかにしてきた。教育をさかさまにやってきたんです。「個性」を発揮するということで、「頭の中身を人と違うようにしろ」といってきた。
(筑紫)その通りですね。
(養老)その結果、ぼくは若い人がわけの分からないことをするようになってきたという気がするんです。なぜなら、人の気持ちが分かることが大事なのに、「人と違う話の中身を持て」といわれるわけですから、大人のいっていることはわけが分からない、と混乱してしまう。
「個性を伸ばせ」といっても、人生経験の少ない若い人には伸ばし方なんて分からないですよ。それに自分のやっていることが他の人に通じなければ意味がありませんから、じゃあ「自分とは何だ」ということで、自分探しをやってみる。
だけど、もともと何もしないところでやってみても、そのものはラッキョの皮むきです。人生経験も何もないんだから当然です。だから、教育の根本というのは、ごく普通の人の気持ちがわかる、あるいは、自分の考えを他の人に伝えることができる。
そういうことであってもいいわけです。「個性を伸ばすなら身体を使え」と、ぼくはいいたいですね。
(筑紫)脳には個性はないんですか。
(養老)脳も体の一部ですから、体として見れば脳も個性を持っています。しかし、絶対に万人に共通しないものがあるわけです。それは哲学で昔からいわれてきた、「あなたが見ている赤と私の見ている赤は同じか」というような問題です。
情報化された赤はどの人とも共通ですが、体としての脳の見ている赤は他の人と同じではないか。体としての脳はたえず変化するからです。たとえば、今、日本人は日本語を使っていますが、「日本語は共通だ」と脳が認識しなければ使えません。
だから、脳の世界は他の人と共通でなければまずいんです。一方、「心」といわれているものの中心は「意識」です。意識は他の人との共通性を追求し、しかも情報化されると止まってしまう。その意識が「私は私」だと、人間の日々に思い込ませているんです。これがないと、毎朝、別人になってしまうわけですが、そうなってしまうと社会生活が営めません。
(筑紫)「私は私」といっているときには、固定した私がいるということですね。
養老孟司(ようろうたけし):1937年11月神奈川県鎌倉市に生まれる。東京大学大学院基礎医学で解剖学を専攻し博士課程を修了。1967年に医学博士号を取得する。日本の解剖学者。東京大学名誉教授。専門は解剖学。