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World View

パッケージ・サティヤグラハとは?

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 テニスにはわりと関心の薄い方だが、全米オープンで2戦連続4時間超の接戦を制し、日本人選手では(1918年の熊谷一弥氏以来の)96年ぶりのベスト4進出を果たした錦織圭氏(24歳)の雄姿には深く感動させられた。もちろんその感動は多くの人と共有するもので、"ニシコリ"をはじめて知った海外の観衆が「ファンになった!」と上気する姿にも驚かされた。
 世界の強豪を相手に接戦を繰り広げたプレー姿もさることながら、その試合後の何とも表しがたい、満々と力と自信がみなぎる堂々たる姿は仰ぎみる思いであった。そのとき受けたインタビューで錦織氏の放った言葉が、「勝てない相手はもういない」である。
 (歳に関係なく)人はこんな風になれる(輝く)ときがあるのだとあらためて思い、ロシアの文豪・トルストイの「青春の力」を思い出していた。それは「人間は一生にただ一度だけ『青春の力』を持つことができる」という言葉である。「青春の力」とは何か。それをまさしく錦織氏が体現しているのだと思う。
 このトルストイの考えを「自分という人間を自らの思うままに創りあげていく力である。全世界をも自分の思うままにしていけるとさえ確信する力である。『青春の力』は、爆発的なエネルギーを秘めている。しかし、それを発揮するチャンスは若き日にしかない。ひと度手放してしまえば、チャンスは2度と戻ってこない」とする理解する人もいる。
 この力を発揮させるのは環境ともいえるが、やはり目標であり目的意識であろう。今回は、マーク・カーランスキー氏のノンフィクション「Salt 塩の世界史 歴史を動かした小さな粒」(山本光伸訳、中公文庫)の一部を紹介したい。
 「Salt」は人類史上最も重要な鉱物であり、しかも「食」には調味料だけでなく(殺菌)保存が不可欠である。それだけに「歴史を動かした」という一面もみえてくる。「20世紀の奇跡」とまで呼ばれたあのマハトマ・ガンジーの非暴力運動も「塩」から始まっているのも意味があろう。
 
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 1885年ボンベイで、高位カーストの知識人を主たるメンバーとするインド国民会議が創立された。なかにはイギリス人もおり、会議発足時には英国統治の継続を支持する者もいた。だが次第に、国民会議のメンバーは独立運動の主導的立場に立つようになる。
 インド国民会議と独立運動を大衆運動へと導いたのはガンディーである。そして独立達成の主たる手段がソルト・サティヤグラハ(真理の把握)、すなわち「塩の行進」だった。
 塩の行進は、1929年ラホールで開かれたインド国民会議に端を発する。いくつかの地域で塩は緊急の問題となり、オリッサなどで反乱勢力がくすぶっていたにもかかわらず、ガンディーの同志たちはそれを知らなかった。
 会議のメンバーの多数、ガンディーに近い者ですら、独立運動の焦点を塩に絞る意見には困惑した。だがガンディーは、塩こそはインドのあらゆるカーストの生活に困難をもたらすイギリスの悪政のあかしである、誰もが塩を食するのではないか、と主張した。
 実際は、「自分を除く誰もが」である。ガンディーは塩の摂取を止めており、6年間というもの塩に触れたことがなかった。1930年3月2日、ガンディーはインド総督アーウィン卿に書状を送った。
 「閣下がこれらの悪に対する方法を見出せず、この書状になんら心を動かされることがない場合、今月12日、私は道場の仲間とともに、塩の法令に背く行動に移る所存であります。貧者の観点からすると、塩税はもっとも邪悪なもの。独立運動がもっとも貧しい者のために行われるからには、まずはこの悪を取り除かねばなりません。我々がこの過酷な専売にかくも長きにおよんで唯々諾々としてきた事実こそ、驚くべきことであります」
 1930年3月12日、ガンディーと78人の賛同者が、ダンディを目指し、400キロあまり240マイルの行進に出発した。ダンディで塩をすくい、イギリスの法を破るのが目的である。アシュラムから来た者ばかりでなく、イスラム教徒が2人、キリスト教徒が1人、最下層のカーストからも2人参加していた。
 ガンディーは一行をインド会社の模型図にする意図だったが、「騎士道的な配慮から」女性の参加は認めなかった。「我々は、行く手にある迫害を覚悟している。拷問を受けることもあるだろう。政府と対立するのに女性を前面に出したら、政府は負わせるべき罰を控えてしまうかもしれない」
 ガンディーの一行は日に20キロ弱ずつ、ほこりっぽい道を進んだ。地平線は熱でゆらめいて見える。先頭を行くのは、竹の杖をつく骨ばった60歳のガンディーである。そのゆっくりとした歩みには自信と決意がみなぎっていた。誰でも疲れたり足が痛くなったりすると、荷馬車に乗った。
 ガンディーは一度たりとも乗らなかった。行進は毎朝6時半に始まる。ガンディーはその数時間前に起きて、糸を紡ぎ、新聞に寄せる記事やスピーチ原稿を書いていた。真夜中に、月明かりを頼りに書き物をしているところを見た者もいる。
 村人がマハトマ見たさに集まってくると、彼は立ち止って対話を始め、ともに歩いてイギリスの塩の専売を打ち破ろうと誘うのだった。彼はまた公衆衛生の向上もとなえ、麻薬や酒を断たなければいけないと説いた。
 不可触民にも兄弟にように接し、イギリスから輸入した織物ではなくカダール織り(インド産の手織り布)の衣服をまとった。アメリカ革命以前の1760年代、ジョン・アダムスが同胞に対し、イギリスからの輸入品ではなく手織りの衣服を着るよう力説したのと同じである。
 「私が一人ぼっちであろうと数千人の仲間がいようと、引き返るつもりはない」とガンディーは書き残している。だが彼は1人ではなかった。行進中、地方の官吏は政府の職を捨てることでガンディー支持の姿勢を示した。だがイギリス寄りの新聞雑誌は、愚弄するだけだった。
 カルカッタの「ステーツマン」紙は、インドが自治領の地位を得られるまで、ガンディーはいつまででも海水を煮詰めていればいいと書いた。反対に海外のマスコミは、この小柄な男が大英帝国を相手取って行進していることに魅了されていた。
 そして世界中がこの途方もない抵抗に喝采を送った。カンディーの説得の才能と決意の強さは、各方面で報道されていた。だが、イギリス人官吏から情報を得ていた総督アーウィン卿は、ガンディーはすぐに潰れるだろうと高をくくっていた。
 インド国務長官宛てに、ガンディーは健康が優れないから、毎日行進をつづけていたらいずれ死んで、「めでたい結末を迎えるだろう」と書いている。4月5日、行進開始後25日目にして、ガンディーはダンディの浜に着いた。今や従う者は78人どころか、数千人に達していた。
 その中にはエリート知識人も貧乏のどん底の人間も、都市の裕福な階層出身者も含む女性もいた。アラビア海の温かい波が打ち寄せる浜で、ガンディーはついて来た者たちを前に、夜通し祈った。夜が明けると、数人を海中に導いて清めの儀式を行った。
 それから浜にひょろ長い足で探りながら、厚い塩クラストがある地点まで行った。天日乾燥で表面にはヒビが入っている。ガンディーはひざまづいてクラストの固まりを拾い、ついにイギリスの塩の法律を破った。「解放者、万歳!」巡礼者の1人が叫んだ。
 オリッサ中から集まった人々が塩の法律に抵抗する誓いの署名をし、野営地に宿泊した。ソルト・サティヤグラハの本質と重要性を議論するための集会が、定期的に開かれた。イギリス側はこのような集会を禁止し、その問題に関して街頭演説した人々は逮捕、投獄された。
 オリッサで公然と塩づくりが実行されたのは4月6日、奇しくもガンディーがダンディで塩をすくったのと同じ日である。地元住民は巻貝を吹き鳴らし、花びらをまいて、非暴力不服従を祝った。4月13日午前8時30分、ついに目的地インチュリに到着した。塩の法律が破られる現場を見に、数千のインド人が集まってきた。
 ガンディーがダンディの浜に着いた記念すべき日からわずか1週間で、運動は全国規模に広がった。塩づくりは事実上「塩集め」だったが、広範囲にわたって行われた。

マーク・カーランスキー:1948年コネティカット生まれのノンフィクション・ライター。1970年代に「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」などへの寄稿で活躍。1992年以降は数々の作品を発表し、「鱈 世界を変えた魚の歴史」(飛鳥新社)と「塩の世界史 歴史を動かした小さな粒」(中央公論新社)で、食文化に貢献したとしてジェームズ・バード賞を2度受賞。