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足りないものを知る、心の闇(空白)と向かう作業
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
知人のデザイナーは「足りないものを埋める」ということを、自らのクリエイティブの信条としている。誰も満ち足りた人などいない。だが、モノが溢れるこの時代に一体、何が足りないのであろうか。それを知る人は、案外に少ないのかもしれない。
「過大な欲を抱かずに足りることを知る」との意の「小欲知足」との言葉を知るが、「足を知る」とは「足りないものを知る」ことであり、それは「小欲」でなければ見えてこないものではあるまいか。かつて聞いた、直面する苦境にあえぐ門下を励ます、師匠のあまりにも辛辣な言葉が心に残っている。
それは「空腹にたえられないようだったら餓鬼道の苦しみを教えなさい。寒さに耐えられないなら八寒地獄の苦しみを教えなさい。恐ろしいのなら鷹にあった雉、猫にあった鼠を他人事と思ってはならない」というものである。直面する苦境を耐えるには、これしかないと思うとともに、真理のように感じられる。
「空白」とはいっても、その空間は井戸の底をのぞいたように深遠な闇の世界がつづいているのではなかろうか。深さの差はあれども、闇を見つめては「果たして埋め尽くすことなどできるのだろうか」と思うに違いない。だが、その闇を恐れずに底に下り、わずかマッチ1本の火をともせばどうなるだろうか。
また何が見えてくるだろうか。自他ともに「足を知る」には、どんなに深い闇であれ、そこと向かい合う以外にはないように思う。次元は違うかも知れないが、今回は、あの「はだしのゲン」を描いた漫画家の中沢啓治氏の自伝「『ヒロシマ』の空白〜中沢家始末記」(日本図書センター)から、その一部を紹介したい。
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1970年(昭和45年)4月、ベトナム戦争の膠着化、70年安保をめぐる賛否、前年秋の沖縄72年核抜き本土並み返還と、重苦しい記事が新聞に躍り、嫌でも核兵器のことが気になり、そして原爆の怒りがムラムラとよみがえり、私の担当編集者に「原爆をテーマにした漫画を描かせてくれないか」と頼んだ。
参考に「漫画パンチ」に掲載した作品を読んでもらった。N編集長は、「よく、この作品を発表させたな」と、「漫画パンチ」を誉めていた。そして私に原爆テーマをやって見ろと言ってくれた。その頃、広島・長崎では被爆二世が原爆後遺症で死んでいて、私の長女にも原爆の後遺症が出たらと不安な思いをしていた。
「後遺症なんかあるもんかっ!」と否定していのだが、事実は事実、冷静に受け止めなくてはならないと思い、被爆二世を主人公に、私の親の気持ちを託して「ある日突然に」という作品を60ページの読み切りとして試作し、下書きをN編集長に見せた。
読み進んでいたN編集長は、机からティッシュペーパーを取り出し、やたらとグシュン、グシュンと鼻をかみ出した。私はN編集長と向き合って座り、作品のダメが出るのではないかと、不安な思いで見守っていた。しばらくしてN編集長が泣いていることに気づき驚いた。
読み終わったN編集長は「20ページ追加! 80ページで描けっ!」と言ってくれた。当時の週刊誌の読み切りで80ページの分量は、大変なページ数であった。何カ所か注意点を指摘され、私の気づかなかったイメージが数倍も拡がった。N編集長は、「下描きだけでこんなに感動させられたのははじめてだ」と言ってくれた。
「ある日突然に」は、善人ぶった大人たちからいつも俗悪漫画誌として指摘されている「少年ジャンプ」に発表された。そして私は、俗悪誌の良さをあらためて思い知った。全国から連日のように社会人、大学、高校、中学、小学生、さらに幼稚園生からも手紙が舞い込んだ。
俗悪週刊誌の反響のすごさに驚いた。読者の手紙は段ボール箱いっぱいになった。それらの手紙を分類して読んでみると、その年代の手紙の内容も、「『ある日突然に』のなかで描かれている原爆のことは本当なんですか? 原爆があんなにすごい破壊とは知りませんでした」という驚きの内容が大半を占めていた。
私はショックを受けた。教科書には、原爆の記述を教えるように記載してあって、当然、学校では社会や歴史の時間に原爆の実態は教えられているものだと私は思っていたが、それがまったく逆で、原爆のことはなにも知らなかったのだ。よくぞ、歴代の首相が「日本は唯一の被爆国である」と言えたものだと呆れた。
読者の手紙でいかに日本人は、原爆に無知かはっきり分かった。広島市の児童さえ原爆の事実を知らない子が半数もいたと知り、当然のことだと思った。読者からは、もっと原爆の事実を教えてくださいと励まされ、N編集長は、「毎年、一週間もかけて核兵器禁止の大会を開き討議しているが、この『ある日突然に』を読ませれば、誰だって理屈抜きで分かる」といって励ましてくれた。
新潟の小学校教師から手紙が来て、生徒が「少年ジャンプ」を教室に持ってきたから「教室へ漫画なんかもってくるなっ!」と怒鳴ったら、生徒は「漫画にも良い物がある」といって、掲載された「ある日突然に」を読まされ、教師は大きな衝撃を受けて、頭を殴り飛ばされた思いをしたそうだ。
職員室で教師に回し読みさせたら、みんな衝撃を受けて、夏休みの登校日に私の作品を生徒の前に広げて「原爆」について語ったら、素直に理解され、ほかの教師と相談して「ある日突然に」をスライド化させたらどうかと決定し、私の作品の使用を許可させてくれと手紙が来た。
私は、役に立つなら自由に使ってくれと返信した。その後、漫画として読ませた方が効果的ということでスライド化は中止になったとのことだった。様々な反響が起き、週刊漫画誌の読者層の厚さと威力のすごさには、頭が下がった。その反面、私には、原爆を描くことが苦痛になった。
被爆の場面を描いていると、死体の腐る匂い、ヤケドから流れる膿の匂い、次から次へと原爆の惨状がよみがえって来て、逃げ場のない穴に閉じ込められたような暗い気持ちになって、すっかり落ち込んだ。
私が広島市で被爆したことが朝日新聞で報道され、原爆漫画家というイメージが世間に知られ、近所の口汚い主婦は、「よく身内のことを描くわね。私なら絶対に身内の恥はさらさないわ」とか、「よく被爆者と結婚したわね、原爆症ですぐに死ぬのに、あなたはたいした人よ」と妻を責め、妻は怒りに震えた。
そんな思いもあって妻は、原爆を描くのはやめてくれといった。私も原爆漫画家と決めつけられるのが嫌で、原爆をテーマにした漫画はやめたいと思った。だが反対に戦争と原爆に対する怨みは、私の心のなかで益々大きく燃え広がった。
そして、72年沖縄返還を前に「戦争」という化け物の正体に迫ってみたくて、担当者に「沖縄をテーマに描かせてくれないか」と頼んだ。私は、沖縄に関する本を読み漁って、頭のなかに叩き込み、出発した。
パスポート、ビザを取り外国旅行の手つづきをして、那覇空港に着いた。空港から那覇市の国際通りのホテルに到着するまで、行けども道路の両側は、基地の金網が果てしなくつづき、ベトナムに向かう最新鋭機は飛び立ち、港は艦船が埋めていた。
沿道は兵器の展示場であった。私は、岩国や横田基地を見ていて、それと同じだろうと想像していたが、まったく想像を絶する米軍基地の巨大さには驚き、呆れた。それは正に、基地のなかの一点に沖縄市民が生活しているようだった。
嘉手納基地でB52の飛び立つ写真を撮ろうとカメラを構えると、パトロールカーが赤いライトを点滅させ、警備員がカービン銃を構えて追いかけてきた。あらためてこの沖縄はアメリカなんだと確認した。基地に土地を奪われ、金網ギリギリまで土地を耕し作物を植えている農民。
ものすごい爆音の下で勉強している小学校。ゴザの街の黒人、白人の人種差別争い。核兵器も貯蔵されている小高い爆薬庫。この沖縄は、今も戦場としてさらされ、一触即発で沖縄本島が一瞬にして吹き飛んで消えてしまうのではないかと身震いした。
中沢啓治(なかざわけいじ)
1939年3月広島生まれの漫画家。代表作に「はだしのゲン」など、広島市への原子爆弾投下による自身の被爆体験をもとに、戦争・平和を題材とした作品を数多く残している。2002年に第14回谷本清平和賞を受賞、2004年にはアングレーム国際漫画祭環境保護に関する最優秀コミック賞を受賞。2012年12月に逝去。