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日本の包装は日本文化の最大の財産
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
ある海外視察のなかで、駐在中のサプライヤーの日本人を紹介された。ひょんな会話から歳を聞いて思わず「えぇっ!」とびっくりすると、同行のみんなも驚いた感じだった。いや、みんなは「驚いた」というより「あきれた」のかもしれない。
「年上だ」と思って聞いた歳が同じだったことにびっくりしたわけだが、みんながあきれたのは、その驚きに対してであったようだ。「一体、自分をどんな風に認識しているのか?」ということである。言われてみれば、腑に落ちないわけではない。
まだ腑に落ちるだけましなのかもしれない。ただ「歳」をして然りで、それほどに自らを客観視することのむずかしさがある。最近は、とくに政治のゴタゴタのほとんどは、そこに起因するのではないかと思えてならない。もちろん他人事ではないのだが、それにしても度が外れた近視眼は他人も迷惑を被る。
なお前車が覆るのも戒めにできず、他人の忠言を聞く耳がないとなれば手に負えない。あの孔子にして「六十にして耳順い」(論語)と理想に掲げるくらいだから、自らを客観視する「第三の目」を持つなどということは、確かにむずかしいことには違いない。
だが、それだけに物事や人生の要所々で、非常に大事な働きを果すものである。2017年を迎えて心新たに、政治をはじめとして世のなかが「第三の目」を失うほど本誌はより、「第三の目」を意識して誌面づくりに励みたい。「第三の目」を失わない最大の秘訣といえば、まさに身近な声に耳順うことであろう。
今回は、いまだファンも多い司馬遼太郎の紀行「街道をゆく」に、最後の6年間随行した村井重俊氏の「街道をついてゆく―司馬遼太郎番の6年間」(朝日新聞出版)からその一部を紹介したい。
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秋になった。「本郷界隈」の連載は快調に進んでいた。10月、ふたたび司馬さんは東京に滞在していた。10月22日には、この年のもうひとつの重要な講演があった。立川市の朝日カルチャーセンター立川での講演で、タイトルは「私の漱石」である。
私は司馬さんが亡くなったあとに、週刊朝日で「司馬遼太郎が語る日本―未公開講演録」という連載を長い間つづけたことがあるが、その1回目がこの講演だった。連載では「漱石の悲しみ」というタイトルをつけている。朝日カルチャーセンター立川社長の畠山哲明への友情から生まれた講演だった。
畠山も元週刊朝日編集長。編集長たちはみな司馬さんのファンになり、編集長をやめたあとも「街道」についてくる人が多い。畠山もその1人で、奥さんの仁子さんとともに、司馬夫妻の大切な友人となった。この年の6月に社長になった畠山に、司馬さんの方からいった。
「ハタケ、講演してもいいよ」。司馬さんの祝の気持ちがこもった講演会だったのである。「私の漱石」は入念に準備されている。事前に配られるシノプシス(要約)のなかで、司馬さんは漱石への思いを書いている。
「文章というものは、多目的でなければなりません。政治や哲学を論じられるとともに、恋愛描写もできなければならないのです。漱石が、それを可能にしました。日本語は、日本文化の最大の財産です。そういうことを踏まえ、漱石を語りたいと思います」。
漱石を語るテキストは「三四郎」だった。司馬さんの数ある講演のなかでも、抜群におもしろいものだったと思う。休憩をはさんで講演は2時間半もつづいた。カルチャーセンターの朗読教室に通う女性が「三四郎」を朗読し、引き継ぐように司馬さんが語る演出もあった。
これも司馬さんのアイデアだった。講演は、「本郷界隈」の世界そのものでもあった。明治の東京は、あらゆる分野で欧米化のモデルとなったと、司馬さんは語っている。
明治の地方人にとって東京がまぶしくみえたのは当然だったといえる。「東京からきた」というだけで、地方ではその人物に光背が輝いているようにみえた。いまなおそうなら、文化的遺伝といっていい。
と「本郷界隈」にはある。熊本から出てきた三四郎にとっては、すべてが輝いてみえた。江戸っ子を気取る与次郎も、「日本はだめになる」とういった広田先生も、そして池のほとりで出会う美禰子さんはもちろんまぶしく見えた。三四郎は、文明を発信する配電盤の役割を果たし始めた明治の東京に驚き、美禰子さんに「ストレイ・シープ」とささやかれ、きりきり舞いする。
主題は青春というものではなく、東京(もしくは本郷)というものの幻妙さなのである。
手づくりの講演会の最後は、漱石の句を紹介して終わっている。「菫ほどな小さき人に生れたし」。この時期の芝さんの定期的な仕事としては、「街道」のほかに「文藝春秋」に連載している「この国のかたち」と、経済新聞に連載している「風塵抄」であった。三作品はハーモニーを奏でるように連携していた。当時の「風塵抄」に、漱石の句についての説明がある。
漱石の人と生涯と作品が、この一句でわかるような気がする。句は、現在の自分を否定している。しかし再構築が、否定の勢いにくらべてよわよわしく、そのためユーモアになりきらずに、つまり"お釣り"として悲しみが掌にのこった。文学の基本が、人間本然の悲しみの表出であることは、いまでもない。
国民作家の定義を私は知らないが、司馬さんだからわかる漱石があったように思う。それにしてもこの講演は楽しかった。350人の聴衆も、司馬さんの人柄によく触れることができたと思う。もっとも、講演会が終わっても、この日の司馬さんの仕事はまだ終わらなかった。
赤坂で食事したあと、ホテルに戻り、記者会見に臨んでいる。この年の文化功労者に選ばれたのだ。「私の小説はすべて、22歳の私にあてた手紙なんです」と、記者会見で語っている。22歳の夏、陸軍の戦車隊に所属し、栃木県佐野市で終戦を迎えた。
「どうしてこんな馬鹿な戦いをしたのか、日本はそんなにつまらない国だったのかと絶望した22歳の自分に対し、日本にもこんな歴史があって、こんな男たちがいたということを伝えたかった。でももう、その義務は果たしましたね」と、司馬さんは語っていた。
私はみどりさんと一緒に、記者会見場の隅で聞いた。記者会見の司馬さんはいつもにもましてまぶしく見えたが、だんだんとさびしくも見えた。さっきまで話していた漱石の悲しみが重なってみえた。もっとさびしかったのはみどりさんだっただろう。
祝の記者会見なのに、「もう義務は果たしました」という言葉は聞きたくなかったと思う。みどりさんは司馬さんの「21世紀に生きる君たちへ」もあまり好きではない。未来を生きる小学生のため、もともとは教科書用に書かれたもので、多くの人々に愛読されている。しかし、みどりさんにとってはさびしいくだりがある。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。たとえば21世紀というものを見ることができないに違いない。
三浦浩さんも、この部分が好きではなかった。みどりさんが書いた「司馬さんは夢の中」(中公文庫)によると三浦さんは、「いやなことを書く人だな。そのとき、司馬さんは77歳だろう」と、みどりさんに電話をかけてきている。元気で当り前の年なのに、である。
司馬さんは私と歩いているとき、よく後ろを振り返った。駅や空港で後ろを振り返り、「いや、みどりがね」といって、みどりさんが追いつくのをよく待っていた。そのまなざしは常に優しかったことをよく覚えている。そのかわりに、唐突に悲しいことを言っては、みどりさんを憂鬱にさせる。これもまた司馬さんだった。
村井重俊(むらいしげとし)
1958年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒。1983年に朝日新聞社に入社。1989年から「週刊朝日」の連載「街道をゆく」の担当となり、1996年まで務める。北海道報道センターを経て「週刊朝日」編集委員。