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命とあって命を包む、あきらめられないパッケージ
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
人間の創り出した問題は人間の手で解決できる。人間の理性と精神は、解決不能と思われることもしばしば解決してきた。これからもまた、そうできると私は信じる」とは、第35代米大統領のジョン・F・ケネディの有名な演説の一部である。
人間の創り出した最悪の問題が「戦争」である。戦争ほど残酷なものはなく、戦争ほど悲惨なものはない。だが、その戦争はいまだウクライナの地でつづいている。ケネディの言葉のごとく、軍事と経済の圧力ではなく人間の理性と精神の力で、一刻も早く停戦と和平の合意に導くことを信じたい。
一方で、あのスピルバーグ監督の映画「プライベートライアン」で中隊長のミラー大尉のセリフに引用された、哲学者のエマーソンの厳しい言葉を思い出す。それは戦争賛美との批判もあるが、エマーソンの強いて戦争のプラス面に目を向けた「戦争は人間の感性を研ぎ澄ます」との言葉である。
それは「先臨終のことを習いてのちに他事を習うべし」との言葉とも重なり、ウクライナでの戦争の現実から目をそらさないということに尽きよう。戦争とは、人間同士が互いの命を奪い合う現実にほかなく、「臨終のことを習い」も「感性を研ぎ澄ます」もまた死と向き合うことの効用にほかない。
今回は医師であり作家の鎌田實氏の随筆「あきらめない」(集英文庫)から「あるがままに生きる」の一部を紹介する。「あきらめる」(諦める)とは「本質を明らかに観て取る」(諦観)との意味で、まさに「あるがままに生きる」ことに通じよう。
鎌田氏はあとがきに、「あきらめないっていうことは、あきらめることなんだ。やっと、そのことに気がついた」「あきらめて、あきらめて生きながら、ときにあきらめきれないものが人生にはある」と記す。誰にも生きること、命こそがあきらめてはならないものである。
* * *
副甲状腺機能亢進症と高血圧症のために、在宅ケアで看ていた九十一歳のはなさんを思い出した。痴呆が加わり、寝たきりになっていた。十年ほど前のことだったと思う。徐々に衰弱が進行していった。尿閉もおこり、おしっこをしたあとにバルーンを挿入して導尿すると、七百㏄も尿がたまっていた。
痴呆も進み、食べることも、排尿も、自分ではできなくなってきた。家族も積極的な延命は望まない、自然に逝かせたいと覚悟も決めた。地域ケア室の創成期のリーダーだった訪問看護師から、不思議な報告を聞いた。はなさんはその日、いつもより食事がとれた。
お粥を二分の一杯、味噌汁少々、牛乳少々を摂取したあと、「雪が食べたい」と、はなさんは言った。この冬は雪が多く、はなさんのベットから、戸外に雪が真っ白に積もっているのが見えた。訪問看護師が訪ねたとき、ちょうど雪を食べているところで、「おいしい?」と聞くと、ニッコリうなずいた。
はなさんは昔よく雪を食べたそうだ。それを思い出したのだろう。美しい、心のなごむ光景あった。それまでの痴呆状態にかき回された騒ぎが嘘のような、静かな光景だった。この一瞬の夕方六時三十分ころ、お嫁さんから電話があった。
「この前、看護師さんたちから教えてもらった努力呼吸ではないかと思う。心配です」という。すぐ訪問する。肩呼吸をしていて、尿はほとんど出ていない。主治医と相談して、この夜、訪問看護師二人の待機をつくり、緊急態勢をとった。
夜九時十分、一番待機の看護師の電話が鳴った。はなさんの呼吸が変だから来てほしいとのこと。リーダーの看護師がはなさんの家に電話をすると、お嫁さんの声はうわずっている。
「ああ、おばあちゃんが...。息が少ししかなくて、どうしたらいいのか...。今、親類の人、みんな来てくれたけど...」。チェーンストークス呼吸の話をしたときもよく理解し、これならいざというときも、あわてない方かなと思っていたのだが、素人だ。ムリもない。
リーダーの看護師は電話で主治医を呼び、第二待機の訪問看護師に、これから行くので仕度をするように伝えた。お嬢さんのあわてふためいた声が耳に残り、思わずアクセルを踏む足に力が入る。時速七十キロで車を飛ばし、第二待機の看護師を乗せ、はなさんの家についたのは九時三十二分だった。
お嬢さんが玄関に飛んできた。「ああ、看護師さんありがとう、早く、早...」ベットへ行くと、はなさんはもう呼吸をしていなった。蒼白な顔は心なしかほほえんで見える。静かな顔だった。まもなく到着した主治医は脈を取り、心音を聴き、「残念ですが、ご臨終です」と伝えた。
ベッドを取り囲んでいた家族は、声を上げて泣き出した。主治医は「お力になれませんでした。九十一年間、見事な大往生だと思います。はなさんは大好きな自分の家で、ご家族の方々に囲まれて息を引き取られ、大変幸せだったと思います。(中略)お疲れでしょう。長い間ご苦労様でした」とねぎらった。
はなさんの旅立ちに何を着せるかということになり、仲の良かった同じ村のかつさんが呼ばれた。かつさんは「いよいよだめだったかね」といい、手を合わせて静かに泣き出した。(中略)かつさんはひとり言のようにつぶやきながら、手を動かしていた。
「よくがんばったよ。楽になってよかったね。はなさん、好きな着物だよ。着せてあげるからね。...きれいだよ。よく似合ってるよ。これ着て温泉に行ったね。あのとき楽しかった。色々なことがあった。戦争があった。何もない時代だったね。昔の冬は雪が多かった。はなさん、あんたは雪が好きだった。雪なんてちっとも味がないのに、あんたは冬になるといつも雪を食べていた。最後の最後に雪を食べられてよかったね。ハイ、旅の仕度はできたよ。いい顔だ、いい顔だ。幸せってもんだ、みんなによく看てもらえて」
おしろいをつけ、唇にちょっと紅をさしてもらったはなさんの顔は、本当に幸せそうな穏やかな顔になった。まるで友達のかつさんの声が聞こえているようだった。周りにいる人たちの心も嬉しくなった。かつばあちゃんの言葉には、不思議な力があった。葬儀のなかで語られるどんなすばらしい弔辞よりも、はなさんを送る心のこもった言葉たちだった。
命を支えるということがどういうことか、少し理解できたような気がした。人を看取るということがどういうことなのか、ちょっとだけ分かった気がした。
古代ギリシャの哲学者デモクリトスは、物質の重要性を説いた。プラトンは、世界の基盤は精神、魂であると強調した。しかし人間の幸せのカタチは、物と心の中間にあるような気がする。
手に入りにくい貴重な物や経験のなかに幸せがあるのではなく、さりとて心のなかだけにさっと鮮やかに幸せは描けるものでもなく、日常生活のささやかな営みのなかに、幸せのカタチは存在するような気がしてならない。
命を支えるということは、その人のささやかな営みの何かを支えるということなのだろう。得体の知れない何か。何かってなんだろう。ぼくたちの心の目が曇っていたら見落としてしまうような、壊れやすい、失われやすい、見渡せばそこいらじゅうにある、ありきたりのものなのだろう。
何かを見つけるためには、感性が必要なのかもしれない。サムシング・グレート、大いなるもの、サイレント・コーリング、宇宙、神、自然、いくつもの言葉が頭のなかを走りまわった。そんな大それたものではないんだ。あっ、はなさんの雪だ。
九十一歳のはなさんの命は、はなさんが食べた雪のように今では消えてこの世にはない。突然、はなさんの、今はない命がぼくに語りかけてきた。ぼくは確かにはなさんの言葉を受け取った。
「人生を生きるのは大変だったさ。辛いことも多かった。だけんども、人生は捨てたもんじゃない。何もないときだって雪を食べる自由があった。味がないからおいしいって、分かるかなぁ」と。
鎌田 實(かまたみのる)
1948年、東京生まれ。東京医科歯科大学医学部を卒業後、長野・諏訪中央病院へ赴任する。諏訪中央病院院長を経て現在は名誉院長。一方で、イラクやチェルノブイリ原発事故の被災地ベラルーシ共和国への医療支援や、東北の被災者支援など活動を行ってきた。日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)理事長、日本・イラク・メディカルネット(JIM-NET)代表、東京医科歯科大学臨床教授、東海大学医学部非常勤教授、岐阜経済大学客員教授。