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死と愛と生への深い洞察の生活から生まれる包装
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
先日、人の皮膚細胞から作製される「培養皮膚」を用いた、指型のバイオハイブリッドロボットの開発(2022年6月9日に米科学誌「MATTER」のオンライン版に掲載)が大きく報じられた。正に1984年からシリーズ化された、人気の米・SF映画「ターミネーター」を想起する人は多いに違いない。
俳優のアーノルド・シュワルツェネッガーの扮した戦闘アンドロイドである。東京大学大学院・情報理工学系研究科の竹内昌治教授らを中心とした研究グループが、指型のロボットの表皮として細胞由来の生きた皮膚を培養したものである。
これまでヒューマノイドロボットなどでは、シリコンゴムで被覆して人のような柔らかな皮膚を模すに過ぎなかった。当然、シリコンゴムには自己修復やセンシング、廃熱(発汗)などわれわれの皮膚のもつ機能などは備わっていない。
同研究は、細胞由来の培養皮膚をロボットの被覆素材として活用することで、修復能力などの機能を備えた皮膚をもつ、指型のバイオハイブリッドロボットの作製に世界で初めて成功したものである。
細胞由来の皮膚つきロボットの作製に関わる要素技術の培養皮膚は、将来のヒューマノイドロボットの被覆材料に止まらず、現在利用される義手や義足分野をはじめ化粧品や医薬品の開発、移植素材としての再生医療分野などで活用が期待されている。
とはいえ科学はけして万能ではなく、人間である以上は「四門出遊」としてブッダの出家の動機を描いた、「四苦」(生老病死)からは逃れることはできない。いまだコロナ禍であり、またウクライナでの戦争がつづくなかにあって、今一度真剣に「四苦」と向き合ってみることは必要ではなかろうか。
そこで、今回は神話学者の沖田瑞穂氏の著書「すごい神話」(新潮選書)から、その一部を紹介したい。沖田氏は、神話の説くところでは「個体として永久不滅か、個体としては死ぬが子を成すことで種として存続するか」というが、人間界はもう少し複雑である。
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子どものころから愛読している絵本に、佐野洋子の「100万回生きたねこ」(講談社、1977年)がある。有名な絵本なので、ご存知の方も多いだろう。この絵本は、一匹のとらねこのくり返す命を描いた話で、生と死について深く考えさせる作品である。
とらねこは百万年もの間、死んではまた生きることをくり返し、けして本当の意味では死ななかった。あるとき、とらねこは野良猫として生まれる。メスねこたちにモテモテの立派な風貌で、とらねこ自身も自分のことが大好きだった。
しかし、とらねこは自分に見向きもしない白いメスねこに恋をして、いつも一緒に過ごすようになる。そして、子ねこもたくさん生まれる。とらねこは、自分のことよりも、白いねことたくさんの子ねこたちをもっと大好きになるが、子ねこたちは大きくなってどこかへ行ってしまい、ついには白ねこも死んでしまう。
とらねこは、朝になっても夜になっても泣きつづけ、そしてある日泣き止むと、そのまま死ぬ。絵本の最後は「ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした」という一文で終わる。なぜねこは、今度こそ本当に死んで生き返ることがなかったのか。
その謎は「カメのおねがい」というナイジェリアの神話で解き明かすことができる。この神話は、マーグリット・メイヨーによって子ども向けに再話され、日本でも百々祐利子によって訳され「世界のはじまり」というタイトルで岩波書店から刊行されている。
この世のはじめには、誰も死ななかった。カメにカメおくさん、男と女、石ころたち、この世にあるものはみんな、いつまでも生きていた。そういう風に決めたのは、この世のつくり主であった。
ある日、カメとカメおくさんは、小さいカメがたくさん欲しいと考えて、つくり主のところにお願いに行った。つくり主はいった。「そうか、子どもが欲しいのか。だが、よく考えなさい。子どもをもつと、いつまでも生きていることはできない。いつかは死ななければならない。さもないと、カメが増えすぎてしまうからだ」。
カメとカメおくさんは答えた。「まず、子ども授けてください。そのあとでなら、死んでも構いません」「では、そのようにしよう」とつくり主はいった。それから間もなく、カメとカメおくさんに、たくさんの子ガメが授かった。
人間の夫婦も、同じようにしてつくり主のところへ行き、子どもを授かった。石は、子ガメや人間の子どもたちがよちよち歩き回ったり、楽しそうにしているのを見た。けれども石は、子どもを欲しいとは思わなかった。だから、つくり主のところには行かなかった。
このようなわけで、いまでは男も女も、カメもカメおくさんも、死ぬときが来る。つくり主が、そう決めたから。けれども石は、子どもを持たない。だから死ぬことはない。いつでも、生きている。
(マーグリット・メイヨー再話、ルイーズ・ブライアリー絵、百々祐利子訳「世界のはじまり」岩波書店、1998年、34~37頁を参照し要約、一部引用した)
このナイジェリア神話も、神話学では「バナナ型」に分類される。亀や人間は子どもを産んで死ぬ、つまりインドネシアの神話でいうバナナの命を生きているのだ。そして石は、子どもを産むことがない代わりに個体として不死である。
この神話に照らしてみると「100万回生きたねこ」のねこの一生は、前半部分と後半部分で、正反対の意味が与えられていることが分かる。前半部分は「石」の命である。真の意味で死なない。死んでも生き返る。すなわち個として永久に存続する命である。
後半部分は「バナナ」の命である。子どもをつくって、子孫繁栄を得ることができる。しかし個としては死なねばならない。ねこの命は、一生は、どういうものだったのか。死んでそれで終わっただけなのか。命は無為なのか。けしてそうではない。ねこは、愛を知った。
愛の果実として、子どもたちをつくった。それが命の代償なのだ。愛は性であり、それは死と切り離せない。エロス(愛)とタナトス(死)は表裏一体なのだ。そして、それらは不死の対極にある。それは神話の論理である。「100万回生きたねこ」の物語は、古い神話的価値、死と愛と生への深い洞察を、現代に蘇られている。
あるとき東名高速道路の道路標識に「70代を高齢者とは言わない街 大和市」という横断幕を見つけて思わず吹き出してしまったあと、深く考えるところもあった。老齢とはどういうことだろうと。そのときふとエジプト神話の「太陽神ラー」の話を思い出した。
人間に恵みをもたらす一方で、熱波や干ばつをもたらす恐怖の象徴でもある太陽は、世界中の神話で主要な神として登場するが、エジプト神話のラーは、最強の神であるにもかかわらず、どんどん老いて引退するという設定になっている。
年齢を重ねるとともに、自制心を失って、口から涎も垂らしてしまう権力者。心のなかでは、長い現役生活に倦み疲れ引退も考えているものの、様々なしがらみもあって、なかなかそういう訳にもいかない。
そうこうするうちに反乱を企てる手下が出てくると、ついその絶大な権力を振るってしまい、歯止めが効かなくなる―超高齢化社会を迎えたわれわれ日本人にとって、なんともリアルで恐ろしい神話である。
沖田瑞穂(おきた みずほ)
1977年、神戸市生まれ。2005年に学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程修了、「『マハーバーラタ』の神話研究 デュメジル神話学の継承と発展」で博士(日本語日本文学)。中央大学や日本女子大学などの非常勤講師。専門はインド神話、比較神話。
主著に「マハーバーラタの神話学」(弘文堂)、「怖い女」(原書房)、「人間の悩み、あの神様はどう答えるか」(青春文庫)、「マハーバーラタ入門」(勉誠出版)、「インド神話物語 マハーバーラタ」(監訳、原書房)、共編著「世界女神大事典」(原書房)などがある。