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World View

シテとワキの掛け合いで展開する「包装」

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 世界的な免疫学者の多田富雄氏に、「死者との対話―能の現代性」(多田富雄コレクション第4巻)との著書がある。「能」には、旅人の「ワキ」と亡霊や精霊の「シテ」との掛け合いで展開する物語も多い。死者との対話といった異質な世界が、現代を生きるわれわれに示唆することは多いのではなかろうか。
 「能」は大きく「現在能」と「夢幻能」に分けられ、前後半(前場と後場)で主人公(シテ)と相手役(ワキ)の掛け合いで展開する。「現在能」はシテもワキも全て生きている人間だが、「夢幻能」ではワキは生きている人間で、シテは神様や精霊、亡霊、怨霊、鬼や天狗など、この世に非ざる存在だ。
 今回紹介するのは、まさに夢幻能を彷彿とさせる芥川龍之介の短編小説「神神の微笑」(「芥川龍之介全集4」)での、宣教師のオルガンティノ神父(ワキ)と「この国の霊」を自称する老人(シテ)との対話の一部(抜粋)である。
 オルガンティノ神父の歩く傍らに、いつのまにか(ぼんやり姿を煙らせたままの)頸に玉を巻いた老人が表れ「誰だ、お前は?」と問うと、老人は「私は誰でも構いません。この国の霊の一人です」と答え、「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくの間、話をするために出てきたのです」と神父をうながし、対話が始まる。
 ウクライナで戦争がつづき、無残に命の失われるなか、われわれは平和裏に生きている。その生死の「間」(あわい)に生きているからこそ、聞こえてくる死者や精霊など異世界の住人の声があるはずだ。
 
* * *
 
 老人:「デウスもこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ」
 神父:「デウスに勝つものはない筈です」
 老人:「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。遥々この国へ渡ってきたのは、デウスばかりではありません。孔子、孟子、荘子、そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。
 支那の哲人たちは道のほかにも、呉の国の絹だの秦の国の玉だの、色々な物を持って来ました。いや、そういう宝よりも尊い、霊妙な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、われわれを征服できたでしょうか。たとえば文字を御覧なさい。
 文字はわれわれを征服する代りに、われわれのために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿本人麻呂という詩人があります。その男のつくった七夕の歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女はあのなかに見出すことはできません。
 あそこに歌われた恋人同士は、あくまでも彦星と棚機津女です。彼らの枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天の川の瀬音でした。支那の黄河や揚子江に似た、銀河の浪音ではなかったのです。しかし私は歌のことより、文字のことを話さなければなりません。
 人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。『舟』と云う文字が入ったのちも、『ふね』は常に『ふね』だったのです。さもなければわれわれの言葉は、支那語になっていたかも知れません。
 これは勿論、人麻呂よりも人麻呂の心を守っていた、われわれこの国の神の力です。のみならず、支那の哲人たちは書道をもこの国に伝えました。空海、道風、佐理、行成―私は彼らの居るところに、いつも人知れず行っていました。
 彼らが手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟です。しかし彼らの筆先からは、次第に新しい美が生れました。彼らの文字はいつのまにか、王羲之でもなければ遂良でもない、日本人の文字に成り出したのです。しかしわれわれが勝ったのは、文字ばかりではありません。
 われわれの息吹は潮風のように、老儒の道さえも和らげました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼らは皆孟子の著書は、われわれの怒に触れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆ると信じています。シナトの神はまだ一度も、そんな悪戯はしていません。
 が、そういう信仰のうちにも、この国に住んでいるわれわれの力は、おぼろげながら感じられるはずです。あなたはそう思いませんか?」
 オルガンティノは茫然と老人の顔を眺め返した。この国の歴史に疎い彼には、折角の相手の雄弁も半分は分からずにしまったのだった。
 老人:「支那の哲人たちののちに来たのは、インドの王子悉達多です―」
 老人は言葉をつづけながら道端のバラの花をむしると、嬉しそうにその匂を嗅かいだ。が、バラはむしられた跡にもちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は、色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。
 老人:「仏陀の運命も同様です。が、こんなことを一々お話しするのは、お退屈を増すだけかも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡の教のことです。あの教はこの国の土人に、オオヒルメムチは大日如来と同じものだと思わせました。
 これはオオヒルメムチの勝でしょうか。それとも大日如来の勝でしょうか。仮りに現在、この国の土人にオオヒルメムチは知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。それでも彼らの夢に見える、大日如来の姿のうちには、インド仏の面影よりもオオヒルメムチがうかがわれはしないでしょうか。
私は親鸞や日蓮と一緒に、沙羅双樹の花の陰も歩いています。彼らが随喜渇仰した仏は、円光のある黒人ではありません。優しい威厳に充ち満ちた上宮太子などの兄弟です。が、そんなことを長々とお話しするのは、お約束の通り止めにしましょう。つまり私が申上げたいのは、デウスのようにこの国に来ても、勝つものはないということなのです」
 神父:「まあ、御待ちなさい。御前さんはそう云われるが、―」
 神父:「今日などは侍が二三人、一度に御教に帰依しましたよ」
 老人:「それは何人でも帰依するでしょう。ただ帰依したということだけならば、この国の土人は大部分、悉達多の教えに帰依しています。しかしわれわれの力というのは破壊する力ではありません。つくり変える力なのです」
 神父:「なるほどつくり変える力ですか。しかし、それはお前さんたちに限った事ではないでしょう。どこの国でも、―たとえばギリシャの神々と云われた、あの国にいる悪魔でも、―」
 神父:「デウスは勝つはずです。」
 老人:「私はつい四五日前、西国の海辺に上陸した、ギリシャの船乗りに遇いました。その男は神ではありません。ただの人間に過ぎないのです。私はその船乗と月夜の岩の上に坐りながら、色々の話を聞いてきました。目一つの神に捕まった話だの、人を猪子にする女神の話だの、声の美しい人魚の話だの、―あなたはその男の名を知っていますか。
 その男は私に遇ったときから、この国の土人に変りました。今では『百合若』と名乗っているそうです。ですからあなたも御気をつけなさい。デウスも必ず勝つとは云われません。天主教は幾ら弘まっても、必ず勝つとはいわれません」
 老人:「ことによるとデウス自身も、この国の土人に変るでしょう。支那やインドも変ったのです。西洋も変らなければなりません。われわれは木々のなかにも居ます。浅い水の流れにも居ます。バラの花を渡る風にも居ます。寺の壁に残る夕明にも居ます。どこにでも、またいつでも居ます。御気をつけなさい。御気をつけなさい...」
 その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇のなかへ影が消えるように消えてしまった。と、同時に(南蛮)寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へアヴェ・マリアの鐘が響き始めた。

芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)
 1892年、東京生れ。1910年に府立第三中学校を卒業し、「多年成績優等者」で第一高等学校第一部乙類に無試験で入学。1913年に東京帝大英文科入学し創作を始め、短編「鼻」が夏目漱石の激賞を受ける。卒業後に海軍機関学校の英語教師となり、教師のかたわら小説を執筆。
 今昔物語などから材を取った王朝もの「羅生門」「芋粥」「藪の中」、中国の説話によった童話「杜子春」などを次々と発表、大正文壇の寵児となる。1919年に英語教師を辞職し、大阪毎日新聞社に入社。塚本文と結婚する。1921年には海外視察員として中国へ派遣。神経衰弱や腸カタルなど体調を崩す。
 西欧の短編小説の手法や様式を完全に身に付け、東西の文献資料に材を仰ぎながら、自身の主題を見事に小説化した傑作を多数発表。1925年に文化学院文学部講師に就任、1927年に薬物自殺。「歯車」「或阿呆の一生」などの遺稿が遺された。