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World View

自然の原則に重きを置いた品行な包装

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 十数年ほど前、親しい方からいただいた古書(「福翁自伝」)が、読まぬまま書棚に置いたままになっていた。ふっと、それを手に取って読んでみるとおもしろい。「何がおもしろいか」といえば、世によく知られている「福澤諭吉」といった人間がおもしろいのである。
 諭吉の著書には違いないが、それが口述筆記であることでまた、(古語使いの読みにくさはあるものの)諭吉の人となりが実によく活写され、非常におもしろい。5年ほどで「340万冊は国中に流布した」とされる「学問のすゝめ」は有名だが、著者の諭吉は「文明開国の勢いに乗じたこと」と語るほどだ。
 諭吉は自著について、「他人の差図も受けねば他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆し、ときの漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、まして序文題字など頼んだこともない。これも余り殺風景で、実は当時の故老先生とかいう人に、序文でも書かせた方がよかったか知れないが、私はそれが嫌いだ」と自伝で語っている。
 これを「意固地」といわずしてなんといおう。今なら「ADHD」(Attention-Deficit Hyperactivity Disorder)といわれかねない。「福翁自伝」が、諭吉の創刊した日刊新聞「時事新報」の1898年7月1日号~1899年2月16日号に掲載されていたことを考えれば、この世を去るまで諭吉は、その意固地を貫き通したわけである。意固地も貫けば信念である。今回は、そんな諭吉の信念がよく表れている箇所を「福翁自伝」から紹介する。
 
* * * 
 
【初めて文部省】
 維新の騒乱もほどなく治まって、天下太平に向いてきたが、新政府はまだまだ跡の片付けが容易なことでなくして、明治五、六年までは教育に手を着けることができないで、もっぱら洋学を教えるは矢張り慶應義塾ばかりであった。
 何でも廃藩置県のあとに至るまでは、慶應義塾ばかりが洋学をもっぱらにして、それから文部省というものができて、政府も大層教育に力を用うることになってきた。義塾は相変らず元の通りに生徒を教えていて、生徒の数も段々増えて、塾生の数は常に二百から三百ばかり、教うるところのことは一切英学と定め、英書を読み英語を解するようにとばかり教導して、古来日本に行われる漢学には重きを置かぬという風にしたから、そのときの生徒のなかには漢書を読むことのできぬ者が随分あります。
 漢書を読まずに英語ばかりを勉強するから、英書は何でも読めるが日本の手紙が読めないというような少年ができてきた。物事があべこべになって、世間では漢書を読んでから英書を学ぶというのを、こちらには英書を学んでから漢書を学ぶという者もあった。
 波多野承五郎などは小どものときから英書ばかり勉強していたので、日本の手紙が読めなかったが、生れつき文才があり、気力のある少年だから、英学の後で漢書を学べば造作もなく漢学ができて、今ではあの通り何でも不自由なく立派な学者になっています。
 
【教育の方針は数理と独立】
 畢竟私が、この日本に洋学を盛にして、どうでもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、あたかも東道の主人となり、西洋流の一手販売、特別エゼントとでもいうような役を勤めて、外国人に頼まれもせぬことをやっていたから、古風な頑固な日本人に嫌われたのも無理はない。
 元来、私の教育主義は自然の原則に重きを置いて、数と理とこの二つのものを本にして、人間万事有形の経営はすべてそれから割出していきたい。また一方の道徳論においては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊自重いやしくも卑劣なことはできない、不品行なことはできない、不仁不義、不忠不孝そんな浅ましいことは誰に頼まれても、何事に切迫してもできないと、一身を高尚至極にし、いわゆる独立の点に安心するようにしたいものだと、先まず土台を定めて、一心不乱にただこの主義にのみ心を用いたというその訳は、古来東洋西洋相対してその進歩の前後遅速をみれば、実にたいそうな相違である。
 双方共々に道徳の教えもあり、経済の議論もあり、文に武におのおの長所短所ありながら、さて国勢の大体よりみれば富国強兵、最大多数、最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下におらればならぬ。国勢のいかんは果して国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。
 そこで東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学と無形において独立心と、この二点である。かの政治家が国事を料理するも、実業家が商売工業を働くも、国民が報国の念に富み、家族が団欒の情にこまやかなるも、その大本を尋ねれば自ら由来するところが分る。
 近く論ずれば、今のいわゆる立国のあらん限り、遠く思えば人類のあらん限り、人間万事、数理の外に逸することは叶わず、独立の外に依ところなしというべきこの大切なる一義を、わが日本国においては軽くみている。これでは差向き国を開いて西洋諸強国と肩を並べることはできそうにもしない。
 まったく漢学教育の罪であると深く自ら信じて、資本もない不完全な私塾に専門科を設けるなどはとても及ばぬことながら、できる限りは数理をもとにして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕ちょっとした話の端にもその必要を語り、あるいは演説に説き、あるいは筆記に記しなどしてその方針に導き、また自分にも様々工夫して躬行実践を努め、ますます漢学が不信仰になりました。
 今日にても本塾の旧生徒が社会の実地に乗出して、その身分職業の如何にかかわらず物の数理に迂闊ならず、気品高尚にして能く独立の趣意を全うする者ありと聞けば、これが老余の一大楽事です。
 右の通り、私はただ漢学が不信仰で漢学に重きを置かぬばかりでない、一歩を進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若いときから心掛けました。そこで尋常一様の洋学者や通詞などいうような者が、漢学者のことを悪くいうのはあたりまえの話で、余り毒にもならぬ。
 ところが、私は随分漢書を読んでいる。読んでいながら知らない風をして、毒々しいことをいうから憎まれずにはいられない。他人に対しては真実素人のような風をしているけれども、漢学者の使う故事などは大抵知っている、というのは前にも申した通り、少年のときからむずかしい経史をやかましい先生に授けられて本当に勉強しました。
 左国史漢は勿論もちろん、詩経、書経のような経義でも、または老子荘子のような妙な面白いものでも、先生の講義を聞きまた自分に研究しました。これは、豊前中津の大儒白石先生の賜物である。その経史の義を知って、知らぬ風をして折々漢学の急所のようなところを押えて、話にも書いたものにも無遠慮に攻撃するから、これぞいわゆる獅子身中の虫で、漢学のためには私は実に悪い外道である。
 かくまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、ふるく腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができないとあくまでも信じて疑わず、いかにもして彼等を救い出してわが信ずるところに導かんと、有らん限りの力を尽つくし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者は皆来い、おれが一人で相手になろうと云うような決心であった。
 そこで、政府をはじめ世間一般の有様を見れば、文明の教育ややあまねしといえども、中年以上の重なる人はややも洋学の佳境に這入ことはできず、なにか謀事を断ずるときには余儀なく漢書を便にして、万事それから割出すという風潮のなかにいて、その大切な霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にしているから、私の身のためには随分危ないことである。