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World View

分別とリサイクルにも頑張れるパッケージ

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 徳島の「燃やせるごみ」の名称変更が、SNSなどでも話題となっている。一般的には「燃えるごみ」との名称が多用されるが、さらに「分別頑張ったんやけど、燃やすしかないごみ」に変更したものである。日本で、リサイクルされていないごみの総排出量はなんと年間3333万トンにもなる。
 徳島市では「燃やせるごみ」で捨てられるなかにも、まだ再利用可能な資源の紙ごみなども多く、それらの削減を目的にまずは市民の意識向上を図る狙いの名称変更である。当然、徳島ではほかにも、様々なごみを減らすための取り組みを行っている上でのことである。
 単に「名称」などと侮るなかれ、「名は必ず体にいたる徳あり」である。「修身斉家治国平天下」とは「大学・経一章」に記された有名な言葉だが、侮りからかまた不学のゆえか、「公邸忘年会」問題などの報じられるほどに、昨今は為政者の(方正の欠如どころか)品行の悪さには目に余るものがある。
 「天下泰平を願うならば、国を善く治めることである。国を善く治めんとすれば家を善く整え、家を善く整えんとすれば、まず身を善く修めることである」との意味である。まずは品行方正にわが身を善く修めるのが為政者であり、リーダーのあるべき姿ではあろう。
 また身を善く修めようと努める者が、名(文字)を侮ることなどあろうはずがない。その意味で、今回は大正時代の名著の河上肇氏の随筆「貧乏物語」(佐藤優訳:講談社現代新書)から、最後の「道徳は経済のなかにあり」「金持ち・資本家の自覚」の部分を紹介する。
 ちなみに筆者の河上氏は、最後の最後に「修身斉家治国平天下」の一節を引かれ、「ああ『大学』のこの一節、なんと価値のある言葉でしょう。私などには、これ以上何もいうことはありません」と筆を置かれている。 
 
* * *
 
 私は貧乏退治の第一策として、金持ちの贅沢禁止を掲げました。それなのに、第一策を論じるなかで、私の話はいったん金持ちから離れて一般人の贅沢になり、さらに消費者責任論から生産者責任論に移りました。頭脳の鋭敏な読者は、私の脱線を怪しまれていることでしょう。
 これを生産者の責任の側から論じてみましょう。すでにお話したように、消費と生産の間には相互に因果関係がありますが、どちらが主かというと、消費が主で生産は従です。社会問題の解決においても、消費者の責任が根本で、生産者の責任は枝葉ということになります。
 なぜかというと、元々物そのものに必要品と贅沢品の区別があるのではなく、どんなものでも使い方次第で必要品にも贅沢品にもなるからです。たとえば米は、普通必要品とされています。しかし、これで酒もつくって、宴会の乱痴気騒ぎでもひっくり返してしまえば、畳を汚すだけのものです。
 世のなかに貧乏人が多いのは生活必需品の生産が足りなかったからだ、という私の説に対して、お前はそう言うけれども日本では毎年何百万トンもの米がつくられているではないか、という方もおられるでしょう。しかし実は、その米がすべて生活の必要を満たすために用いられているわけではありません。
 徳川光圀公の惜しまれた紙、蓮如上人が廊下に落ちているのを見て両手で押し頂かれた紙、その紙が必要品であることに異論はないでしょう。しかし、紙をはじめ、どんな必要品であっても、使い方によっては限りなくムダにされているものです。
 逆に、自動車などは、多くの人が贅沢品といいますが、医者が急病人を診察に行くために使えば、むろん立派な必要品になります。このように、どんなものでも使い方によって必要品にも贅沢品にもなります。だから、いくら生産者の方で必要品だけをつくるようにしても、生産者の責任よりも消費者の責任を強調し、一般人の責任よりもとくに金持ちの責任を力説したのです。
 しかし金持ちも貧乏人も、消費者も生産者も、お互いにその責任を全うするようにならないと、理想的な経済状態を実現することはできないのはいうまでもありません。
 貧乏退治の第一策は、以上のようなものです。ここまでお読みになった読者のなかには、実に詰まらない、夢のようなことをいう奴だと失望された方もおられるでしょう。そうした読者には、私は「ミル自伝」の作者であるJ・S・ミルにならって、この物語はそういうあなた方のために書かれたものではないので勘弁ください、と申し上げるしかありません。
 もし、ここまでの論について、著者に多少は同感であるという読者がおられるならば、そうした読者を相手に、私はもう少しお話したいことがあります。私は先ほど、消費者としての、また生産者としての各個人の責任について述べ、ひいては経済と道徳の一致を説きました。
 これについて思い出されるのは、「中庸」の「道は須臾も離るべかず、離るべきは道に非ざるなり」という一句です。世間の実業家は、道徳を別世界のことと考えています。たまに道徳のことを口にしても、商売には信用が大切だ、という程度です。
 しかし、もし私がそれほど間違っていないなら、生産や消費といった一切の経済的活動、さらに服を着て飯を食らって用を足すといった、朝から晩までの生活すべては「道」に通じる、ということになります。道徳は経済のなかにあり、経済すなわち道徳なのです。
 そのようにしてはじめて、「道」から片時も離れてはならず、離れるようなものでは道ではない、ということが本当に分かるのです。私が大学の勉強を終え、もっぱら経済学を研究するようになって14年経ちます。
 最近になってようやく、朧気ながらこうしたことが垣間見えるようになってきましたので、この物語を書いて、意見の一端をお話しした次第です。とはいえ、この物語がもし何かの間違いで専門学者の目に触れるようなことがあれば、おそらく荒唐無稽であるという批判を免れないでしょうが。
 最後に、世界の平和についてお話ししたいと思います。欧州は今や大戦で修羅の場と化しています。この大戦の真の当事者は、イギリスとドイツです。何のために、この両国が戦っているのかというと、結局は経済上の利害の衝突です。
 要するにイギリスもドイツも、製品輸出の競争から資本輸出の競争の時代に入ったこと、これがそもそもの不和の要因です。一国の産業がある程度以上に発達すると、商業・工業の利潤が次第に蓄積され、資本が豊富になります。
 そして、その資本は国内の事業に投じるよりも、海外の発展途上国に投じる方が、はるかに高い収益率を上げることができるようになります。そうなると商品の輸出と同時に、資本の輸出が経済的に重大な問題となってきます。イギリスは早くも50~60年前にそういう時代に到達していました。-(中略)-
 イギリス人にとっても縁もない外国人である私が、今さら彼らのためにいうまでもなく、たとえば「エコノミスト」主催のウィザーズ氏が、その近著「貧乏と無駄」のなかで詳しく論じているように、今日イギリス本土にも、なすべき事業がたくさんあります。-(中略)-貧しい人びとの生活に必要な品を供給するだけでも、相当な仕事が残っています。
 イギリスは、最も資本の豊富な国、世界一豊かな国です。それなのに、そうした仕事が放棄されたままになっているのは、貧乏人の需要に応える事業に投資するよりも、海外の未開拓の新事業に投資する方が儲かるからです。
 それによって、世界一豊かなイギリスは、同時に世界一貧乏人の多い国でありつづけ、しかも資本輸出の競争のために国を挙げて戦争をしなければならなくなったのです。
 もしイギリスの金持ちや資本家が、消費者としての、また生産者としての責任を自覚するようになれば、国内の社会問題を平和に解決できるばかりか、世界の平和をも維持できるようになるでしょう。

河上 肇(かわかみ はじめ)
 1879年、山口県生まれ。1902年に東京帝大法科大学政治学科を卒業し、翌年東京帝大農科大学実科講師となる。1905年に教職を辞し、伊藤証信の無我苑に入るが、翌年2月離脱。1908年に京都帝大の講師、1909年に助教授、1913年から2年間ヨーロッパに留学。1914年に法学博士、教授となる。
 1916年に「貧乏物語」を大阪朝日新聞に連載し反響を呼ぶ。1928年に京都帝大を辞職し、1932年に共産党に入党。翌年検挙され入獄し、1937年に出獄。以後は漢詩などに親しみ「自叙伝」を執筆。代表的著作は「資本論入門」「経済学大綱」など。1946年に死去。