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World View

命をつつむがゆえに「包装こそ心よ」

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 富士山が37回ユネスコ世界遺産委員会で「信仰の対象と芸術の源泉」として、2013年に世界文化遺産に登録されたことは周知であろう。ただ富士山世界文化遺産は、標高1500m以上の範囲と山裾までが一帯化した、神社や溶岩樹型、湖沼など25の構成資産であることをご存知であろうか。
 夏に登山口の富士五合目辺りから山頂を仰ぐと、案外に「霊峰」といった感ではなく「小高い丘」といった印象である。逆に裾野の方を見渡せば、遥かにつづく樹海と点在する大湖が霞んで見える。世界遺産の登録地域の面積だけでも20,702.1haと、それを保護する緩衝地帯の49,627.7haである。
 ちなみに富士山の5合目以上は水のない無水地帯であり、トイレは有料で高度の上がるほどに値が上がる。富士山の年間降雨量は約22億トンで、そのうち、約150万トンが蒸発により失われ、450万トンのほとんどが富士山に浸み込むようである。
 ただ富士山はスポンジのような地質(玄武岩質成層)で、降った雪や雨は地下に浸透し、長い歳月を経て地上に湧き出す。その際に水を通しにくい地層(古富士泥流)の上に、水を通しやすい地層(三島溶岩流)が重なり、天然のろ過装置として不純物が取り除かれる。
 周知のように富士山麓(山梨県側)には「富士五湖」と呼ばれる山中湖と河口湖、西湖、精進湖、本栖湖が並ぶほど水が豊富で、かつ豊富なミネラルを含んでいる。こうした(5合目以上にはない)豊かな水源が、多種多様な生物(動植物)を生かし育んでいるわけである。
 作家の吉川英治が小説「宮本武蔵」に記した、「富士のように黙って、自分を動かないものに作りあげろ」とのセリフは有名だが、「富士」は単に不動の象徴ではなく、その深い懐でたくさんの命を護り育む存在なのだ。それを缶ずれば感謝や畏敬の念の湧かないわけがない。
ゆえに「信仰の対象と芸術の源泉」なのである。その意味で、今回は哲学者の梅原猛氏の著書「森の思想が人類を救う」(小学館)から、その一部を紹介する。
 
* * * 
 
 3000年前の日本は縄文時代で、狩猟採集の時代です。どんぐりのなる木は、広葉樹林の木もあるし、落葉樹林の木もありますから、日本はどんぐりに非常に恵まれている。ですから、縄文時代には、サケやマスが川を遡上する東北地方や、どんぐりの豊富な九州地方に人口が多かった。
 そして近畿地方にはほとんど人は住んでいなかった。縄文時代の主食は魚とどんぐり、それに山菜が主で、それを土器で煮て食べていたのです。それに縄文時代には、樹齢何万年という木が、日本列島の至るところに生えていたかもしれない。
 そして、やがて時代は下って今から2300年ほど前、弥生時代になると、平地部に水を引いて水田をつくるようになる。それから現代まで、日本では水田中心の農業が行われるのですが、現在、日本の森林率は67%といわれていますから、日本は世界の文明国のなかで圧倒的に森林の多い国です。
 中国はどうでしょうか、はっきりとした数字はありませんが、おそらく10%くらいでしょうね。日本の国土の67%が森林で覆われているのは、いったいなぜか。一つは稲作農耕の導入が遅れたからです。日本に稲作が入ってきたのは2300年前ですから、日本は農業の後進国です。
それに日本に入ってきた農業が稲作農業だったから、牧畜をともなわないし、水田は平らなところにしかつくれない。山や森林にはどうしても水田がつくれない。それで日本には森が残った。とくに武雄市の御船山のような神の山もたくさん残された。
 先に日本の森林率は67%だといいましたが、そのうち54%は天然林だといわれています。つまり日本の国土の3分の1は、自然林がそのまま残されている。これはすばらしいことだと私は思います。日本の宗教は神道と仏教ですが、とくに日本の神道は、私は本来、森の宗教であったと思う。
 つまり、日本の神道は、縄文時代から日本人の宗教であった。ですから日本の神社には必ず森がある。森のない神社は神社でない。われわれは子どものときから神社といえば森を連想して育ちました。しかし寺院といわれても、われわれは必ずしも森を連想しない。
 寺院でも森があるところが多いですが。しかも神社の神殿とか拝殿とかいうものは、かなりあとの時代、7世紀ころにできたものです。7世紀以前には、神社には神殿も拝殿もなく、神さまは森そのものであった。神さまをあの神殿のなかに閉じ込めることはできないはずです。
 本来、神さまというものは、宇宙を遊泳していてときどき降りてくるものです。御神木にはしめ縄が張ってありますが、それはこの木には神さまが降りてきますよという印なのです。つまり日本の神道は元々は自然崇拝なのです。この自然崇拝の神道が2度国家宗教になった。
 1度目は19世紀から20世紀にかけて、日本の神道は著しく国家宗教化した。そういう国家宗教化したものを、われわれは神道と考えがちですが、それは本来の日本の神道とは違うのです。本来の日本の神道は自然崇拝です。そして自然崇拝は大樹の崇拝でもある。
 またそれは石の崇拝であり、山の崇拝であり、川の崇拝であり、岩の崇拝であり、地の崇拝であり、動物の崇拝であり、植物の崇拝である。それが日本の神道であると私は理解しています。ですから神社には森があり、そして神の使いである動物がいる―お稲荷さんには狐がいるし、お三輪さんには蛇がいるし、天神さまには牛がいる。
 その神の使いと称する動物たちは、かつては神そのものであったに違いない。日本の神道というものは、元々自然崇拝の宗教であった。そして自然崇拝の宗教は、単に日本だけのものではなく世界共通です。とくに狩猟採集時代においては、世界に共通の宗教だったに違いない。
 狩猟採集時代には人類は森に棲んでいた。森に住んでいた人類が、一番はじめに感じたことは自然の力の偉大さです。ですから、そういう自然を神とした。太陽も神であり、地球も神である。山も川も植物も動物も、みな神である、そういう神に祈りを捧げて、そして神々が自分たちの生活を護ってくれることを願った。
 そういう人類共通の宗教の一つの表れが日本の神道である、と私は考えるのです。そして、6世紀になると日本に仏教が入ってくる。仏教はインドのお釈迦さんの教えですが、お釈迦さまはこの世を苦の世界と考え、苦のもとには愛欲があると考えた。
 だから愛欲が滅びれば、この世において苦が滅びるばかりではなく、六道の間を生まれ変わり死に変わりする、輪廻転生をまぬがれると考えたのです。それが釈迦の説く悟りというものですが、これはどちらかといえば、はなはだ人間的な宗教であるといえます。
 そういう仏教が6世紀に日本に入ってきた。ところが仏教は日本に入ってきて、釈迦仏教から大きく変容しました。どういうふうに変わったかというと、お釈迦さんの教える仏教は人間中心の、人間が悟りを開くという教えだったのですが、日本に入ってきた仏教は、人間ばかりか、生きとし生けるものは全部仏になれるという仏教に変わった。
 そこで非常におもしろいことが起こるのです。それは先にも話したように、日本では仏像が全部木になるのです。これは今まであまり指摘されたことがなかった。当時、中国では一番立派な仏さんは金銅仏で、金でできた、きんきらきんの仏さんが一番もてはやされました。
 その次が乾漆の仏像です。乾漆仏というのは、粘土で型をつくっておいて、その上に何回も漆を塗って、麻布を貼って何回か漆を重ねて、ある程度の厚さにして、最後に粘土の芯を抜いてつくる仏像で、価値が高かった。そして、その次が塑像で、土でつくられた仏像です。

梅原 猛(うめはら たけし)
 1925年、宮城生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。立命館大学文学部哲学教授、京都市立芸術大学教授・学長のほか、国際日本文化研究センター所長(初代)、日本ペンクラブ会長(第13代)などを歴任した。縄文時代から近代までを視野に、文学・歴史・宗教などを包括し日本文化の深層を解明する幾多の論考は「梅原日本学」と呼ばれる。
 著書に「隠された十字架一法隆寺論」「水底の歌」「仏教の思想」「共生と循環の思想」「葬られた王朝一古代出雲の謎を解く」「人類哲学序説」「親鸞『四つの謎』を解く」など多数。