• ニュースフラッシュ
  • ワールドビュー
  • 製品情報
  • 包装関連主要企業
  • 包装未来宣言2020

トップページ > World View

World View

生命尊厳を体現し得る変幻自在なパッケージ

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 2024年の新春から重苦しい話では誠に恐縮だが、むしろ「新年」だからこそ、アフターコロナの「百年の計」として受け止めてもらえれば幸いである。「戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない。だが、その戦争はまだつづいている」である。
 いかなる身分や立場、どこの国のどんな分野に身を置く者でも、人間である以上は「この現実」から逃れることはできまい。現にわれわれ人類は例外なく、生命をはじめ経済や社会、資源・エネルギー、食糧の危機に止まらず、地球環境の無為な破壊といった深刻な影響を、長引くウクライナでの戦闘やガザの攻撃から多大に受けている。
 せめて、われわれ包装人の目指す「包装」は、生命さん奪の「戦争」とは対極にある、「生命尊厳」の立場を明確に示しておきたい。ここで表す、「生命尊厳」とは人に限らず全ての生命は尊く、犯してはならない厳かなものとするとの考え方である。
 「生命を包む」といった行為のそのものに生命尊厳があり、その生命尊厳こそが「包装」の安全・安心の品質保持にはじまり、性能や機能、美しさや楽しさを醸し出す多様性、また変幻自在なコミュニケーションといった様々な価値を創造する源泉となるものだ。
 「包」は子を身ごもる姿の象形文字に由来するが、誰もが母(女性)ほどに「生命尊厳」を身で知る人はいないと思うであろう。「論壇の一匹狼」とまで呼ばれた大熊信行氏もまた「私自身にとって意外なものであった」として「家族論」を著した。
 様々な思考と熟考の末、家族は「生」、国家は「死」の象徴として「核時代の最後の日に人間が守らなければならないものは、いったい国家か、家族か」と記している。今回は、彼の著書の「戦後民主主義批判 日本の虚妄」(論創社)から、その一部を紹介する。
 
* * * 
 
 国家の独立は、もはや人間にとって最後の価値ではなく、最高の価値でもない。いざとなれば滅亡または消滅に堪える覚悟さえも、われわれは持たねばならない。世界連邦主義者こそは、第一にその覚悟を必要とするはずである。
 国家主権は、いうまでもなく大切なものである。しかし民族の生命は、もっと大切である。いざとなれば民族の保全のためには、主権の喪失にも甘んじなければならぬ。核爆発によって、民族そのものが滅びるよりは、敵国に降伏することで民族を救う、という一つの道のあることも、承知しておかねばならない。が、これは世界連邦主義だけの問題ではない。
 核時代というのは、民族を国家から分離して考えることの必要な、新しい時代である。もしも人間が、いつまでも国家を最高の価値と考え、絶対のものと信じることを止めることができず、そして国家のために生命を捧げることが最高の道徳である、という古い観念を、どうしても棄てることができないならば、地上の人類百万年の歴史は、やがて破滅に至るであろう。
 では、その破滅をまぬかれるために必要な、新しい精神的装備は何か、と問われれば「国家の運命と民族の運命とを二つのものに分離して考える」という知的・精神的習性と答えよう。日本こそは単一民族国家であるからだ。
 以上が、わたし自身の核時代観である。ギリギリのところで、私はこの論理を自分の精神の支えとしている。とはいっても、核時代によって開発されたこの究極の論理を、いきなり目の前の世界政治の現状に、当てはめるつもりはない。すなわち「国家の独立」は、もはや究極の価値ではないにしろ、それはまだ原則として、守らなければならない価値である。
 もしも「独立」が失われているものならば、必要な犠牲と忍耐をもってして、これを回復しなければならない。これが、私の当面の現実的な考え方である。この現実的な考え方の背後に、私の上述の究極的な考え方があり、いわば思考上の一つの遠近法が、そこにあることになる。
 さて問題は、もしも現に「国家の独立」が失われているものならば、必要な犠牲、賢明な智略、および政治的、道徳的忍耐をもってして、これを回復するための、あらゆる努力が、継続的になされなければならない。もう私は一般論に止まっているのではない。祖国日本の当面の問題を論じているのである。
 日本の独立の回復。この問題をあつかうにあたって、まず何よりも注意しなければならないのは、現政府・自民党には、そういう問題意識は表面上、絶無だという一事である。「独立の回復」という一つの問題意識は、いうまでもなく独立の喪失という事実認識(歴史認識)の下敷きの上に成り立つ。
 ところが、また保守政権のあらゆる発言のどこを探してみても、祖国日本の独立喪失について、それをありのままにとらえた言辞というものは、まったくこれをみい出すことができない。独立喪失の意識のまったく欠けているところに、独立回復の問題意識はあろうはずもない。
 むしろあべこべに、日本が現に独立国であるということの偽りの誇示が、佐藤総理の国会における施政方針演説においても、スープに浮かんだ脂の玉のように漂っている。そして、あの「自らの国を自らの手で守る気概」などという、空虚で有名な言葉も、その脂の玉の一つに過ぎない。
 今日の日米関係は、日本の「無条件降伏」と、6年8カ月にわたる軍事占領の、直接の結末であり、また結実でもある日米安保条約によって、規制されている。それは、言葉の多様な意味において、不平等な条約であることは、あらためていうまでもない。
 平和憲法とても、ポツダム宣言受諾と初期占領政策の一つの結実なのであって、日本民族の「国家意識」の喪失は、「防衛意識」の喪失に由来し、そして「防衛意識」の喪失は、まさしく軍事占領の日に、はじまったといわなければならない。
 昭和27年4月28日、幸いに占領が終結し、征服と被征服の関係は、表面的に消滅し、そして形式的・表面的には「独立」を回復したとはいうものの、平和憲法が存続する以上、「防衛意識」の喪失は、占領時代からそのまま延長されて、ついに最近に至ったものなのだ。そういうよりほかはない。
 日本が当面している防衛問題なるものは、まずもって上述のような戦後史および戦後精神史についての、適切な自覚と、深刻な反省を語ることなしには、提起することを許されないはずのものである。
 しかるに、あの敗戦の8月15日以来、すでに24年におよぶ日本の歴史とその運命について、勇気をもってこれを正視すべきことを、全国民に訴えるどころか、自らその歴史を忘失したかのような態度で、国民に「国家意識」の高揚を説きはじめたのが、佐藤総理の施策方針演説である。
 アメリカの核のカサの下に生きるということ。それも一つの道である。それが核時代におけるわが日本の、政治的選択の一つであり得ることは、私もこれを認める。いざといえば、そのカサの下で、国家主権を再び喪失するとも、日本民族の生命は、最後までこれを守らなければならないかもしれない。
 私はそれも認める。自民党がそこまで考えているのなら、勇気を出してそれを主張したらいい。しかし問題は、日本の未来の政治的選択が、それ一つと限られてはいないところにある。よりよい選択がないとはいえない。したがって、「選択の自由」こそは、現に日本民族が心に求めている当のものだということである。
 少なくとも野党各派が現に求めているのは、とりもなおさず、その「自由」である。それこそが、われわれの「独立」への志向である。政府演説に対する東京六大紙の論調を、投稿欄にまで目をくばって、つぶさに調べてみたことがある。
 けれども、ここに述べたような歴史的な視覚からの論評は、不幸にして見当たらない。現政府は、歴史を忘れてしまった点では、記憶喪失症。歴史の到達点である現実を直視できない点では、視力喪失症。そうもいうべき合併症状にあるのではあるまいか。

大熊信行(おおくまのぶゆき)
 1893年2月18日、山形・米沢市生まれ。1921年に東京高商(現・一橋大学)専攻科卒、1941年に東京商科大学で経済学博士。小樽高商や高岡高商、富山大学、神奈川大学、創価大学の各教授を歴任。
 経済学者としては、1929年の「マルクスのロビンソン物語」で世に知られ、以後配分理論を中心に研究をつづけた。また中学時代より文学を愛好し、1913年に土岐哀果の「生活と芸術」に参加。1927年に歌誌「まるめら」を創刊、プロレタリア短歌運動に先駆的な役割を務め、非定型和歌運動を推し進める。戦後は教育・文化・社会評論と多方面に論陣を張り、「論壇の一匹狼」と呼ばれ、1977年6月20日に没した。
 主な著書に「戦争責任論」「経済本質論」「国家悪」「結婚論と主婦論」「現代福祉国家論」「家庭論」「生命再生産の理論」「資源配分の理論」、歌論集「昭和の和歌問題」、全歌集「母の手」などがある。