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World View

不可思議な人のつくる不可思議なパッケージ

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 ウェザーニュースでは、2024年の第5回桜開花予想を発表した。2024年の開花は九州や四国では平年並だが、広い範囲で平年より早まるとの予測である。ソメイヨシノの開花は東京の3月19日がトップで、21日に名古屋、福岡などがつづくとの予測である。
 それもそのはず、気象庁では2024年冬(前年12月〜2月)の日本の平均気温の基準値(1991〜2020年の30年平均値)からの偏差は+1.27℃で、1898年の統計開始以来2番目に高い値と報じている。
 気象庁によれば、日本の冬の平均気温は様々な変動を繰り返しつつ、長期的には百年あたり1.24℃の割合で上昇しているとのことだ。ただし、千年を越えた数十万年単位での平均気温(推定値)の変動を追えば、また違った実像が見えて来る。
 「春雨じゃ、濡れてまいろう」との戯曲のセリフがある。大正時代人気を得た、坂本龍馬の僚友の武市半平太こと武市瑞山を戯曲にした新国劇「月形半平太」である。細い雨滴のしとしとと長く降る雨を「春雨」といい、草木の芽を吹き出させ、花の蕾をほころばせる静かな暖かい雨である。
 英国人は少々の雨では傘を差さないようだが、傘をさすのもためらうような、しっとりとした春雨の風情を楽しむところが日本人の美意識である。その「春雨」が降ると、なぜか心に浮かぶのが、美空ひばりの歌曲「愛燦燦」(作詞・作曲:小椋佳)である。
 歌詞の一番は「雨さんさんと/この身に落ちて/わずかばかりの運の悪さを/恨んだりして/人は哀しい哀しいものですね/それでも過去達は/優しく睫毛に憩う/人生って不思議なものですね」である。
 今回は、評論家であり書店店主の山本七平が、ユダヤ人のイザヤ・ベンダサンの名で著した「日本人とユダヤ人」(全日本ブッククラブ版)から一部を紹介したい。著書には「日本人には『以心伝心』で『真理は言外』であるのだから。従って『はじめに言外あり、言外は言葉とともにあり、言葉は言外なりき』であり、これが日本教『ヨハネ福音書』の冒頭なのである」とある。
 
*  *  *
 
 宣教師はよく日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。無宗教人などという人種は純粋培養でもしなければできない相談だし、本当に無宗教なら、どの宗教にもすぐ染まるはずである。
 だから私は宣教師にいう、日本に宣教しようと思うなら、日本人の「ヨハネ福音書」と「ロマ書」をお読みさない、そしてそれが済んだら日本人の旧約聖書の全部は不可能にしても、せめて「創世記」と「第二イザヤ」くらいは読まねばいけません、と。
 彼らは驚いていう。そんな本がありますか、と。ありますかには恐れ入る。そしてさらに日本教を研究したければ、日本教の殉教者を研究しなさい、というと目を丸くする。殉教者はいますか。当たり前です。殉教者のいない宗教はありません。
 西郷隆盛という人、あの人は日本教の聖者であり殉教者ですというと、もう全く訳が分からないという自信喪失の顔付になってくる。そこで私はいう。いや何のご心配もいりませんよ。何十年か日本で一心に伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。
 「あの人は宣教師だが、まことに宣教師くさくない、人間味あふるる立派な人だ云々...」。何十年か経ったら思い出してください。この「人間味あふるる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたとき、あなたが日本教キリスト派に改宗したので、あなたの周囲の日本人がキリスト教徒になったのではないという事実も。
 私は冗談をいっているのではない。日本教の中心にあるのは、前章でも述べたように神概念ではなく、「人間」という概念なのだ。したがって日本教の「創世記」の現代的表白に次のように書かれていても不思議ではない。
 
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住み難いからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住み難かろう。
 越すことのならぬ世が住み難ければ、住み難い所をどれほどか寛容て、束の間の命を束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。
 
 「草枕」を読まずに日本を語ってはならぬ。新聞記者で日本に2、3年いて、いっぱしの日本通のような顔をした人間には、私はいつもそういうことにしている。宣教師さん、この不思議な世界が一体あなたに理解できると思うのか。
 思うなら次の一文をお読みあれ。これが日本語で、「草枕」のなかに収まっていると、実に見事な詩だということが、あなたに想像できるだろうか。
 世のなかはしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋まっている。元来何しに世のなかへ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風に当たる面積の多いのを以って、さも名誉の如く心得ている。
 五年も十年も人の尻に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思っている。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬことを教えている。前に出て云うなら、それも参考にしてやらんでもないが、後ろの方から御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。
 うるさいと云えば猶々云う。よせと云えば、益々云う。分かったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こちらも屁をひるのを以って、こちらの方針とするばかりだ、そうなったら日本も運の尽きだろう。
 
 漱石、この西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典までを自由自在に読みこなし、自分の作品のなかに縦横に駆使し得た同時代の世界最高の知識人が到達したのは、「人の世をつくったのは人だ」という。日本教の古来一貫した根源的な考え方である。
 この世界には猫は住めても神は住めない。皮肉なようだが、旧約聖書には猫という言葉が全く出てこないのと対照的である。猫は主人公だけれど神のいない世界、神が主人公だが猫はいない世界、この2つの世界に同時に住めると思う人がいたら狂人であろう。
 宣教師さん、日本教創世記、日本教イザヤ書はしばらく措き、日本教にはどんな一面があるか、ある事件を通じてお話ししつつ、日本教「ヨハネ福音書」に進もう。むかし、あなたのように遥々日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。
 そこで宣教師はいった「金や銅でつくったもののなかには神はいない」と。老人が何といったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くしていった「もちろん居ない」と。今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。
 老人は彼を見据えていった「塵を払って仏を見る、如何」と。失礼だが、あなたたちだったら、これに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十字架を見上げる、そのときの心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応、それで良しとしよう。

山本七平(やまもと しちへい)
1921年12月18日東京生れ。1937年に青山学院教会で洗礼を受け、青山学院専門部高等商業学部を卒業、1942年に陸軍近衛野砲兵連隊に入隊。1947年に復員して1958年に聖書学の出版社の山本書店を設立、1970年にイザヤ・ベンダサン名で著書「日本人とユダヤ人」を敢行し、300万部のベストセラーとなった。著書に「私の中の日本軍」「『空気』の研究」などがあり、1973年に第35回文藝春秋読者賞、1981年に第29回菊池寛賞を受賞。1991年69歳で没した。