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変革を起こすプラグマティック・パッケージ
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
「異次元」「火の玉」などの大言壮語が、リーダーの口から出るようになると危いと思う人は多かろう。戦後80年(2025年)にならんともなれば、大戦を知る経験者は少なくなろう。「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」「産めよ殖やせよ」などは大戦中に国の掲げたスローガンである。
「自分の信念や理想にこだわって結果に責任を持たないのも、結果さえ良ければ信念や理想など要らないと考えるのも真の政治家ではい」とは、ドイツの社会学者のマックス・ヴェーバーの言葉である。大言壮語とは結果に責任を持たぬ、信念や理想とは対極の空言や虚言、空事の類だ。
政治家に限るまいが、真実のリーダーとは「いかに困難な状況にあろうと『にもかかわらず』といい切れる信念を持ち、現実に挑んでいく人間のことである」とヴェーバーはいう。長編小説「橋のない川」を著し、部落差別に取組んだことでも有名な、住井すゑさんの残した「憲法には『嘘をつかないこと』以外は何もいらない」との言葉は有名だ。
「嘘をつかないこと」とは、吉田松陰の座右とした「至誠無息」(中庸)であり、信念や理想、結果に責任をもつこと原型である。江戸後期の経綸書「日暮硯」に記された、信州松代藩・家老の恩田木工が藩財政を改革し、再建した事跡は有名だ。木工が改革に当たりまず誓ったのが「嘘をつかない」である。
今回は、セゾングループの創業者で、また「辻井喬」のペンネームで小説や詩を書かれ活躍した堤清二氏の訳・解説による「現代語で読む 日暮硯」(三笠書房)から、堤氏の解説の一部を紹介したい。
「日暮硯」は著者未詳だが、(ジョン・F・ケネディが尊敬する日本人の1人に挙げた)米沢藩主の上杉鷹山や二宮尊徳らも座右の書とし、また現在でも多数のリーダーらが愛読する経世の書である。原文はおよそ50ページに収まるほどであり、未読の人は是非とも一度読まれることをお勧めしたい。
政治にしろ、経済・社会にしろ、また人生の万般に通じる時代を越えた人間学の一書である。堤氏もまた、あとがきに「これは現代にとって示唆的な書である」と記している。
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長い間、「日暮硯」は私にとって気の重い、しかしけして意識のなかから消え去らない存在であった。今から200年前、今の長野・松代一帯を領地としていた真田藩の財政立て直しの事実を記録したこの小冊子が、そのように気になるのは、これが日本的経営の真髄を示していると評価されていたからである。
私は、その「日本的」という点にこだわり、近代的経営は、おそらく「日暮硯」とは反対の原理の上に築かれるはずだと漠然と考えていた。その当時、私の脳裡にあった近代的経営とは、まず第一に所有と経営の分離であり、社会的公器としての経営であった。
第二に経営の目的に共感する構成員が自由意志に従って参加した目的共同体であるべきであり、第三に終身雇用に代わる契約概念に基づいて集団が形成されている利益共同体であって、わが国の企業社会にしばしばみられる運命共同体意識、封建時代の藩と同質の意識は排除されるべきであり、第四に年功序列に代わる能力主義が貫かれていなければならない、とするイメージであった。
だから、徳川幕府の体制下における一地方の藩の財政立て直しの実績を、日本的経営の模範として評価することは、それ自体、わが国の経営社会の近代化を後戻りさせる見解であり、時代錯誤であることはもとより、国際社会に歩み出していかなければならない第二次世界大戦後の日本経営にとっては、好ましくない見解である、と考えていた。
経済同友会の創立当初(1946年)、思想的にも大きな影響を与えた大塚万丈らが提唱した修正資本主義とは対極に立つ保守的思想にほかならないように私にはみえた。そのころから40年近い年月が経過し、わが国の経済社会は大きな変貌を遂げた。
これは国際環境と、政治的な長期安定に恵まれ、戦争前には考えられなかった国内市場(これは、新しい憲法の制定と女性の地位の向上、労働者の団結権の法的社会的承認等いわゆる民主主義の浸透と家族関係の変化などをその社会的、政治的背景としている)の出現に支えられて、世界の経済史上でも稀にみる高度成長を遂げたからであった。
こうした経過のなかで、わが国の経営思想、社会感覚がどのように変化したかは、学問的にも興味あるテーマである。しかし、ここ数年、経営に関する考え方は一変したかにみえる。その一つの契機になったのが、1940年に出版された、イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」であったように私には思われる。
そのなかに、この「日暮硯」が大きく取り上げられていたのである。著者は「私はユダヤ人を政治的低能と規定する。イスラエルの長い歴史を振り返っても、一人の恩田木工もいない」と断言しているほど、日本人の発想、物事を処理する態度、思想や心情の傾向を、ユダヤ人と正反対のものとみなす文脈のなかに恩田木工が成し遂げた松代藩財政立て直しの行動様式を浮かび上がらせたのである。
この本と相呼応するかのように、著名な経済学者である占部都美教授が「崩壊する日本経済」というタイトルで、「日暮硯」を中心に据えた著作を発表した(この本はのちに全面的に改訂されて「杢流経営法」という題名で1976年に再登場した)。
このころから再び、「日暮硯」は人々の注目するところとなったのである。しかし、このときは戦争直後の関心の持たれ方とは色彩を異にしていた。戦争直後の関心の持たれ方はアメリカ占領軍による相次ぐ民主的改革、それに鼓舞された労働運動や政治革新を求める流れに抗して、「日本には日本のやりかたがある」と抗議する立場からの「日暮硯」評価であった。
70年代以降の再評価気運は、むしろその逆といっていいだろう。日本的経営を主張する人々の背後には、敗戦の打撃から立ち上がって、40年たらずのうちに世界第2位の生産量を誇る経済大国を築き上げたのはわれわれだ、という自負があった。
一方、西欧社会には思想的にも、制度的にも、成熟期から衰退期を迎えているかのごとき現象が蔓延っている。実存主義から構造主義、そして文化記号論にいたる哲学の流れをみても、経済人類学の台頭という現象にも、近代化を形成した西欧文化そのものへの懐疑と自己点検の姿勢が見受けられる昨今である。
多くの時代的思潮の変化に敏感な知識人は、現代西欧社会の袋小路を突き抜けるには、在来の政策思想にはなかった発想が必要だと考えているかにみえる。反近代主義の思潮と呼んでもいい。それらの風潮と、ただ経済大国となったことを誇りに思うわが国経済界の風土とが一体になった地点で、「日暮硯」が再読されることは、どのような思想的帰結へと私たちを導くか。
今日、「日暮硯」を現代文に翻案し、検討を加える必要を感じるのは、まさにこのような観点に立ってのことなのである。その間、私自身も経営者の立場に立って仕事を続けてきた。その身近な体験をも想起しながら「日暮硯」を再読するとき、かつてのような観念的な否定ではなく、さりとて手放しの楽天的評価でもない曲折に満ちた取捨選択が求められているように思われる。
当時、松代藩は財政の破綻、治安の混乱という状態に喘いでいた。恩田木工が起用される直前、財政の専門家として高い評価を受けていた田村半右衛門は請われて勝手係(今日の経営でいう財務担当重役)に就任し、藩の財政再建をまず支出の大幅削減から実施した。
つまりゼロシーリングによる赤字財政の克服、そのための行政改革に乗り出した。しかし、彼の権力的な強硬策は領民たちの反感を買い、2000人を越える百姓一揆へと発展し、反政府運動に下級武士の足軽の一部も参加し、彼はついに遁走する羽目に陥り、行革は完全に失敗に終わった。この危機に、恩田木工は39歳の若さで抜擢されて勘略奉行に着任する。
【著者】堤 清二(つつみ せいじ)
1927年3月、東京生まれ。1948年に東京大学経済学部商学科入学、1951年に東京大学卒業後、新日本文学編集部勤務。1953年に東京大学の文学部国文科に再入学する。1954年に西武百貨店に入社し、1955年に東京大学文学部中退、西武百貨店取締役店長に就任し、大岡信や清岡卓行、飯島耕らの同人誌「今日」に参加。1961年に西武百貨店代表取締役社長に就任、詩集「異邦人」にて第3回室生犀星賞受賞。1963年に西友ストアー(現西友)代表取締役社長に就任、以後、西友・パルコ・クレディセゾンなどを展開し、セゾングループを形成。また「辻井喬」の筆名で小説家として活躍。「虹の岬」で谷崎潤一郎賞、「父の肖像」で野間文芸賞受賞。2012年に文化功労者。2013年11月に肝不全のため死去、享年86歳。