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「出ずると入る」との「息遣いのあるパッケージ
今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。
昭和レトロブームなどが話題となっている。中島みゆき作詞・作曲の「地上の星」ではないが、「昭和」を彩った色々なスターたちが、一人また一人と地上を去っていく。これもまた時代の変わり目を示すものには違いないが、一抹の寂しさを禁じ得ない。
いにしえの理には「潮の干ると満つと月の出ずると入ると、夏と秋と冬と春との境には必ず相違することあり」とあるようだ。ただ人の寿命は無常で、出る息は入る息を待つことがない。世界的なマエストロである小澤征爾氏が2024年2月に88歳でこの世を去られた。
世界中からマエストロを偲び、数多く弔辞が寄せられたわけだが、作家の村上春樹氏の寄せた「ジュネーヴの古いコンサートホールの楽屋で征爾さんの手を思い切りごしごしと撫でていた」との忘れ得ぬエピソードもその一つである。小澤氏は、欧州の学生オーケストラの指揮を終えたのちに倒れ込み、意識を失ってしまったのである。
学生の手も借り、村上氏が必死に手足をこすりつづけたお陰で小澤氏は意識を取り戻した。当時、小澤氏は癌の手術を受けたばかりで、「重い物は食べてはいけない」と医師から厳命を受けていた。だが小澤氏は、「指揮の前に腹が減ったんで、つい赤飯をぺろっと食べちゃった」と明かす。
村上氏は、「この人(小澤さん)の生き方というか、あり方だった」と回顧し、「エピソードのほとんどにはユーモラスな要素が含まれている」と綴る。そもそも小澤氏に限らず、人の寿命の無常さにはユーモラスな要素が含まれているのではなかろか。残されたものが、それを感じられるか否かである。
今回は、小澤征爾氏が26歳のころに書かれた自伝「ボクの音楽武者修行」(新潮文庫)から、その一部を紹介する。音楽プロデューサーの萩元晴彦氏は、同書を「疾走している人間の鼓動や吐息が聞こえてくる」「比類のないみずみずしい青春の書」と評する。
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ベルリンではベルリン音楽祭が開かれており、音楽は実に豊富だった。日本のラジオが朝から晩までジャズや歌謡曲をやっているように、ベルリンの町ではどこかしらでたいてい音楽をやっていた。
当時カラヤンも重要な音楽会をいくつかやっていた。ぼくもそのあとカラヤンのレッスンをオーケストラつきで受けられるようになったのだが、そのコンクールのことを話そう。このコンクールにパスしなければカラヤンの弟子にはなれないことは、今までの場合と同じなのだ。
コンクールの曲目については夏前からいわれていたので、よく覚えておいた。ところがコンクールの会場へ行ったら、曲目が違っている。連絡の不備と、ぼくがドイツ語をよく読めないことからの手違いなのだ。これには慌てた。
しかし、ぼくの番までにはまだまる一昼夜あるので、急いでコンクールのスコア、マーラーの「大地の歌」を買って来た。そして、その夕方から翌日の夜まで、ほとんど24時間ぶっ通しで休みなしにスコアを読み、覚えた。こうなると音楽も体力の勝負になりかねない。
翌日、ぼくは覚え立てのスコアをもって、コンクールの会場である音楽院に行った。するとすでにオーケストラの連中が来ていて、コンクールが始まっている。どうやら今度は、時間を間違えたらしい。ドイツ語では6時半のことを半7時(バンプズィーベン)というようないい方をする。
ところが、ぼくはドイツ語には暗いので、半7時だというから、7時半だとばかり思ってきたのだ。それで、カラヤンのマネージャーとベルリンに長くいて、ぼくのことを色々心配してくれている田中路子女史が大いに気を揉んで待っていた。
ぼくは最初にコンクールを受けるはずだったが、遅れたので後回しになり、10番目くらいに指揮をすることになった。ベルリンは大都会のくせに田舎の面もあって、ぼくがブザンソンのコンクールに通っているというので、テレビ・カメラまで来て、そのコンクール風景を映した。
それだけ音楽を大事にしているということなのかもしれない。ベルリンが音楽の町だということは街をちょっと散歩しただけでも感じられる。さて、テレビにまで映されているのでは、落ちたら大変だとぼくは慌てた。
幸いなことに序曲はくじ引きで「ウィリアム・テル」が当たり、アレグロの前の和音がぴったり合った。見物のお客さんもオーケストラの人たちも、ブラボーとはやし立ててくれた。ぼくはこのコンクールも無事合格した。お陰でぼくはカラヤンの弟子になれたのだが、ほかにもそういう人が2人いた。
カラヤンという人は、だいたい魔法使いみたいな指揮で、あっという間に客を引きつける。そんな魔法など他人に理解できるわけがないので、こういう人の弟子になってもあまり益するところがないのではないかと、実はぼくも思っていた。ところが大違いだった。
レッスンとなると、カラヤンは指揮台の真下の椅子に腰掛けて、ぼくらが指揮をしているのを、じろっと睨むようにしてみている。ぼくは睨まれると、カラヤンの音楽そのものを強要されるような気がした。しかし一方、カラヤンは教えることに非常に才能があった。
睨みはするが、けして押しつけがましいことはいわず、手の動かし方からはじまってスコアの読み方、音楽のつくり方という順序で、ぼくらに指揮をするように教えた。そして、ぼくらの指揮ぶりを見たあとでは具体的な欠点だけを指摘した。
また演奏を盛り上がらせる場合には、演奏家の立場よりむしろ、耳で聞いているお客さんの心理状態になれといった。方法としては少しずつ理性的に盛り上げていき、最後の土壇場へいったら全精神と肉体をぶつけろ、そうすればお客も、オーケストラの人たちも、自分自身も満足するといった。
またシベリウスやブルックナーのように、今まであまり日本人には縁のない作曲家のものと取り組むときには、その作曲家の伝記を読むのがいい。なお、ひまとお金があれば、その人の生まれた国、育った町をぶらつくのがいい。そうして音楽以前のものに直接触れて来いと説いた。
ぼくはレッスンのために、毎月一度パリからベルリンに通った。パリで3週間勉強し、働き、ベルリンで1週間カラヤンのレッスンを受けるという生活が、アメリカに引っ越すまでつづいた。ベルリンでのカラヤンの人気はすばらしい。
いや、ヨーロッパ全体でもすばらしく、まったく音楽の王様という感じだ。だから、彼の音楽会の切符を手にするのはむずかしい。しかしぼくは弟子にしてもらったおかげで、音楽会はもちろん、練習やレコード録音にまで立ち会うことができた。
ぼくがカラヤンのところに通ったころはだいたい寒い季節だった。ベルリンの町外れの古い教会を使ってやる録音場へ、冷たい風に吹かれながら毎朝通ったものだ。寒いので、よく子どもがするように、手に暖かい息をかけながら小走りに行くと、向こうからも同じようにベルリン・フィルの連中がやって来る。
「おはよう」「おはよう」と、挨拶をかわしながらみると、たいてい鼻の頭が赤くなっている。なかには水っぱなを垂らしそうになって、慌ててハンカチで拭く者もある。いかにも音楽をするためだけに生きている人たちといった素朴な匂いがした。
もっともカラヤンはぼくたちとは違い、高級自動車で乗りつけて、さっと録音場に姿を消すのだが。録音場は教会の壁に防音の布をかけただけで、見物人は弟子のぼくたち3人だけ。あとはけして人を入れない。
敗戦国のドイツが戦勝国のフランスより生活がしやすいということは不思議だ。しかし、そこにはドイツ人の並々ならぬ努力があったことだろう。しかも、それによって無味乾燥にならず、町には美しい音楽が溢れている。ぼくはベルリンの思い出をいつまでも忘れないだろう。
小澤征爾(おざわ せいじ)
1935年、中国・奉天(現瀋陽)生れ。成城学園中学・高校を経て、桐朋学園で斎藤秀雄に指揮を学ぶ。1959年、仏・ブザンソンで行われたオーケストラ指揮者国際コンクールで第1位を獲得。ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタインに師事し、1961年、ニューヨーク・フィルの副指揮者となる。そのあとトロント交響楽団、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督などを経て、1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年にわたり務める。2002年に、日本人として初めてウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮し、同年秋にはウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。2008年に文化勲章受章。2024年2月に心不全で死去。