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World View

ごみにならぬ、地球の一部になり得るパッケージ

「七夕決戦」といわれた都知事選は、大方の予想に違わず、現職の小池百合子氏が3期目の当選を果たして幕を閉じた。小池氏は選挙戦を振り返り、「何度も経験をいたしておりますが、これまでなかったような選挙戦でございました」と述べたが、それは50を越えた候補者数と掲示板の乱用くらいのことで、実に表層的なことに過ぎない。
それよりも同日にフランスで行われた、国民議会(下院、定数577)選挙の決選投票の開票結果の方が、「これまでなかった」と驚きを隠せない人は多いのではなかろうか。右派政党「国民連合」(RN)の圧勝との予測に反し、左派政党連合が最大勢力を獲得し、大統領率いる中道与党連合が2位でRNは3位に沈んだ。
まったく二者択一好きで揺れ幅が極端に大きい欧米人の心情は、われわれ日本人には理解しがたい。ただ国や人種、選挙制度は違えども、いずれも投票率が上がったことは評価できる。右か左か中度か、又は小池百合子か蓮舫か石丸伸二かではなく、大事なことは(選んだ責任をともなう)民意の反映である。そもそも投票率が50%を切るようでは心もとない。
「菩薩」とは、素人的にいえば「仏」(菩提)に至る最終段階の修行であり行者だ。その菩薩もけして一様ではなく、弥勒や文殊、普賢、地蔵、観音、虚空蔵など多様である。なかでも、昔から日本人に愛されてきた菩薩といえば、観世音(観音様)である。
明確な理由は分からぬが、文字通り世の哀音を良く聞き届けるとなれば、何となく理由もうなづけなくもなかろう。ただ「観音」とは耳で聞くのではなく、いわば体感であり、同苦の意味である。ともすればSNSなどの空中戦が注目されがちだが、「体感」「同苦」には肉弾戦は不可欠である。
そこで、今回はノンフィクション作家である佐野眞一氏の著書「宮本常一がみた日本」(筑摩書房庫)から一部を紹介する。新紙幣の肖像に収まった渋沢栄一氏の孫・渋沢敬三氏に「宮本くんの足跡を地図に赤インクで記せば日本列島は真っ赤になる」ともいわせしめたほど、各地を歩き実語を聞き取った民俗学者である。
 
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宮本常一は、相手の話が本当かそうでないかを確かめる基準は、一つは堕胎間引きの話が出てくるかどうか、一つは密造のドブロクが出てくるかどうかと述べている。性を含めた庶民の世間話を正確に聞き取った「名倉談義」には、宮本の密かな自負が感じられる。
宮本が名倉を訪れた当時、大地主が小作人たちを搾取してきたような村落ばかりを選んで調査し、そこから導き出した封建遺制の残存だけを言い立てるマルクス主義歴史学が横行していた。宮本は「名倉談義」の冒頭で「地主と小作の分化している村は面白がって皆調査する」という言葉で、マルクス主義歴史学の手法に対し控え目ながらはっきりと距離を置いている。
宮本は「名倉談義」の冒頭で、次のようなことを述べている。私がたいへん感動したのは、ある老人が夜遅くまで仕事をした、とくに小笠原シウさんの家の前にある田で遅くまで仕事をしたのは、その家の明かりがいつもついていたからだ、というと、小笠原シウさんが、それは家の前であんたがいつも仕事をしているのを知っとったからじゃ、という話をしたことだった。
この座談会で、それが語られるまで、その好意が相手に伝えられていなかったことに、私はなお感動した。村共同体のなかには、こうした目に見えない助け合いがある。無論、それと反対の目にみえない貶め合いもあるのだが...。
「この村に言いごとの少ないのは、昔から村が貧乏であったお陰でありましょう。飛びぬけた金持ちはいなかった。それに名主は一軒一軒が順番にやっております。小作人でも名主をしたものであります」という古老の話も、宮本を勇気づけたに違いない。
宮本は「名倉談義」で「対馬にて」につづき、流行に感染しただけのいまどきの思想風潮に静かな異議を唱えた。宮本は地主による小作の収奪が、日本の農村や農民の心を暗くし、ねじ曲げたことを否定しなかったが、それだけで一切を判断しようとはしなかった。
宮本は、そうした作業をつづけながら、土佐山中の盲目の元馬喰があけすけに語る性の遍歴話を、文学にまでみごとに結晶化した「土佐源氏」に至る道を準備していた。「土佐源氏」が書かれるのは、「名倉談義」のすぐあとである。宮本の観察眼の確かさは、名倉集落を撮影した写真にも表れていた。
小笠原家を含む名倉の社脇集落を、国道から撮った写真には、きちんと防風林が写し込まれている。小笠原家のまわりには今も防風林で囲われており、現当主の豊氏は、名倉は恵那から吹き下ろす北からの強風がものすごく、防風林なしではとてもやっていけない、だから番地も吹上という、といった。
宮本がカメラを向けたと思われる地点に立ち、今辞去してきたばかりの社脇集落の方向を眺めた。その風景は宮本が映した当時と何ひとつ変わらなかった。私は、その風景を眺めながら、泉下から蘇った宮本が耳元で、「人間の生活ちうもんは五十年や、そこらで変わるもんじゃないんじゃ」と囁いているような気がした。
変わらないことへの関心こそ、宮本民俗学のダイナミズムだった。宮本は名倉調査で、集落のほぼ中心に位置する「桜屋」という旅館に投宿した。宮本が撮影した写真には、当時の「桜屋」主人の鈴木久世氏が何枚か写っている。鈴木久世氏の名前は宮本の取材ノートのなかにも残っている。
「桜屋」は約30年前に廃業し、鈴木久世氏もすでに亡くなっていたが、その息子で80歳になる鈴木規夫氏は宮本のことをよく憶えていた。「宮本さんは大変気さくな人でした。あとからたいへんな大学者だと聞いてびっくりしました。宮本さんは二階の一番南向きに面した部屋に泊まっていました。夜は一階の広間で年寄を集めて座談をしていました」
同じころ、名倉調査に入っていた元名古屋大学文学部助教授(社会学)の安藤慶一郎氏は「桜屋」で宮本とたまたま同宿になったことがある。「僕はそのころ、唯物史観にこり固まっていました。民俗学なんて保守的な学問はダメだ、というと宮本さんは、だから君たちはダメなんじゃ、といってました。今から思うと汗顔の至りです」
鈴木氏に宮本が「桜屋」で撮った写真をみせると、鈴木氏は「あっ、これは息子だ」といって、少し悲しそうな顔をした。宮本はまだ小学生にも上がっていなかった鈴木氏の次男をことのほか可愛がっていたという。「かわいそうなことに、この子は大学時代に亡くなりました」
聞けばその子は昭和27年の生まれだったという。私は鈴木氏の話を聞いて、宮本がその子を可愛がった理由が分かったような気がした。宮本は同じ年の三男をもうけている。まして宮本は昭和21年にできた子どもを生後50日で失っていた。
その死と葬いは哀切にみちた名品「萩の花」に詳しい。宮本は長旅から帰ってきたときのことを、こんなエピソードをまじえて語ったことがある。「旅から帰って家の近くまで来たとき、わが子に似た子どもが歩いていることがありました。私の顔をみても表情一つ変えないで、よその子かと思って家に帰ったんですが、その子も私のあとをついて家に入ってきた。やはり私の子どもだったんです」
宮本は自分の子の死に目にも会えず、わが子からも顔を忘れられるくらいの旅暮らしの毎日を過ごした。私は名倉への旅で、宮本の民俗学に対する自信に手ごたえを感じると同時に、宮本の父親としての悲しみもまた実感させられることになった。
宮本は「萩の花」のなかで、こう述べている。
「私は、この子のために、この子が生きて果たすであろうと思われる人間としての義務と愛情と誠実とを背負うて将来を生きていきたいと思う。その祝福されたるなかに含まれていた、近親の希望のたとえ一部でも、私や子の母によって実現したいものであると思う。そして、それがこの疲れ果てた国土の上に少しでも生き生きとしたものをもたらすものでありたいと思う」

佐野眞一(さの しんいち)
1947年、東京生れ。1965年、稲田大学第一文学部に入学。稲門シナリオ研究会に入り、音楽出版社を経てノンフィクション作家になる。主著に、民俗学者の宮本常一と渋沢敬三の交流を描いた「旅する巨人」(大宅賞)、エリートOLの夜の顔と外国人労働者の生活、裁判制度を追究した「東電OL殺人事件」、大杉栄虐殺の真相に迫り通説を覆した「甘粕正彦 乱心の曠野」「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」など多数。2022年9月に死去。