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東京都心でも9月に入っても執拗に猛暑日がつづき、統計史上最長で年間最多の10日連続猛暑日を記録したわけだが、列島を舐めるように北上した台風15号が過ぎてみれば、あっさりと秋が到来した感ではある。秋はもう二十四節気の「白露」だ。
つい先日まで、列島各地の猛暑報道に白熱していたメディア各社も、もうすっかり(2022年11月8日以来)3年ぶりとなる皆既月食報道で一色である。9月7日夕に昇った満月(Harvest Moon)は、日づけの変わった1時27分に欠けはじめ、3時30分から3時53分までの約1時間23分間、地球の影に入る皆既月食である。
秋の夜空に鈍く浮かんだ赤銅色の皆既月食を観れば、(パスカルでなくても)誰しも「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない」ことを実感するに違いない。だが、哲学者のパスカルは「しかし、それは考える葦である」とメモに書き止めたわけである。
この時季は、「稔の秋」「食欲の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」「読書の秋」などと呼ばれるわけだが、たとえ哲学者にあらずとも「思考の秋」として、パスカルに習い「考える葦」となることも秋の一興ではなかろうか。
今回は、哲学者の三木清氏の著書「人生論ノート」(新潮文庫)から、少々難解な「習慣について」の一部を紹介したい。脳科学者の中野信子氏は、現在の考える力の衰えを嘆いているようだが、三木氏は「形を単に空間的な形としてしか、従って物質的な形としてしか表象し得ないというのは、近代の機械的な悟性のことである。むしろ精神こそ形である」という。
 
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人生において、或る意味では習慣がすべてである。というのは、つまりあらゆる生命あるものは形をもつている、生命とは形であるということができる、しかるに習慣は、それによって行為に形ができてくるものである。もちろん習慣は単に空間的な形ではない。
単に空間的な形は死んだものである。習慣はこれに反して生きた形であり、かようなものとして単に空間的なものでなく、空間的であると同時に時間的、時間的であると同時に空間的なもの、即ち弁証法的な形である。時間的に動いてゆくものが、同時に空間的に止まっているというところに、生命的な形ができてくる。
習慣は機械的なものでなくて、どこまでも生命的なものである。それは形をつくるという生命に内的な本質的な作用に属している。普通に習慣は、同じ行爲を反覆することによって生ずると考へられている。けれども厳密にいうと、人間の行為において全く同一のものはないであらう。
個々の行為には常に偶然的なところがある。われわれの行為は偶然的な、自由なものであるゆえに習慣もつくられるのである。習慣は同じことの反覆の物理的な結果ではない。確定的なものは不確定なものから出てくる。個々の行為が偶然的であるから、習慣もできるのであって、習慣は多数の偶然的な行爲の、いわば統計的な規則性である。
自然の法則も統計的な性質のものである限り、習慣は自然であるということができる。習慣が自然と考へられるように、自然も習慣である。ただ習慣という場合、自然は具体的に形として見られなければならぬ。
模倣と習慣とは、或る意味において相反するものであり、或る意味において一つのものである。模倣はとくに外部のもの、新しいものの模倣として流行の原因であるといわれる。流行に対して習慣は伝統的なものであり、習慣を破るものは流行である。
流行よりも容易に習慣を破り得るものはないであらう。しかし習慣もそれ自身一つの模倣である。それは内部のもの、古いものの模倣である。習慣において自己は自己を模倣する。自己が自己を模倣するところから習慣がつくられてくる。
流行が横の模倣であるとすれば、習慣は縱の模倣である。ともかく習慣もすでに模倣である以上、習慣においてもわれわれの一つの行為は他の行為に対して、外部にあるものの如く独立でなければならぬ。習慣を単に連続的なものと考へることは誤である。
非連続的なものが同時に連続的であり、連続的なものが同時に非連続的であるところに習慣は生ずる。つまり習慣は生命の法則を表している。習慣と同じく流行も生命の一つの形式である。生命は形成作用であり、模倣は形成作用にとって一つの根本的な方法である。
生命が形成作用であるということは、それが教育であることを意味している。教育に対する模倣の意義については、古来しばしば語られている。その際、習慣が一つの模倣であることを考へるとともに、流行がまた模倣としていかに大きな教育的価値をもっているかについて考へることが大切である。
流行が環境から規定されるように、習慣も環境から規定されている。習慣は主体の環境に対する作業的適応として生ずる。ただ、流行において主体は環境に対してより多く受動的であるのに反し、習慣においてはより多く能動的である。
習慣のこの力は形の力である。しかし流行が習慣を破り得るということは、その習慣の形が主体と環境との関係から生じた弁証法的なものであるためである。流行のこの力は、それが習慣と相反する方向のものであるということに基いている。
流行は最大の適応力を有するといはれる人間に特徴的である。習慣が自然的なものであるのに対して、流行は知性的なものであるとさえ考へることができるであろう。
習慣は自己による自己の模倣として自己の自己に対する適応であると同時に、自己の環境に対する適応である。流行は環境の模倣として自己の環境に対する適応から生ずるものであるが、流行にも自己が自己を模倣するというところがあるであろう。
われわれが流行に従うのは、何か自己に媚びるものがあるからである。ただ、流行が形としては不安定であり、流行には形がないともいわれるのに対して、習慣は形として安定している。しかるに習慣が形として安定しているということは、習慣が技術であることを意味している。
その形は技術的にできてくるものである。ところが、流行にはかような技術的な能動性が欠けている。一つの情念を支配し得るのは理性でなくて、ほかの情念であるといわれる。しかし実をいうと、習慣こそ情念を支配し得るものである。
一つの情念を支配し得るのは理性でなくて、ほかの情念であるといわれるような、その情念の力はどこにあるのであるか。それは単に情念のうちにあるのでなく、むしろ情念が習慣になっているところにある。私が恐れるのは彼の憎みではなくて、私に対する彼の憎みが習慣になっているということである。
習慣に形づくられるのでなければ情念も力がない。一つの習慣はほかの習慣をつくることによって破られる。習慣を支配し得るのは理性でなくて、ほかの習慣である。いい換えると、一つの形を真に克服し得るものはほかの形である。流行も習慣になるまでは不安定な力に過ぎない。情念はそれ自身としては形のともなわぬものであり、習慣に対する情念の無力もそこにある。
一つの情念がほかの情念を支配し得るのも、知性が加わることによってつくられる秩序の力に基づいている。情念は形のともなわぬものとして自然的なものと考えられる。情念に対する形の支配は自然に対する精神の支配である。習慣も形として単なる自然でなく、すでに精神である。

三木 清(みき きよし)
1897年、兵庫生まれ。一高在籍時に、西田幾多郎の「善の研究」に感銘を受け、京大で哲学を学ぶ。1922年からドイツに留学し、ハイデルベルク大学のハインリヒ・リッケルトの下で学ぶ。1923年にはマールブルク大学に移り、ハマルティン・ハイデガーから影響を受ける。
ハイデガーから学んだ解釈学的手法を駆使し、パスカルの「パンセ」についての論文を書き「思想」に投稿。これがもとで、1926年に処女作「パスカルに於ける人間の研究」を出版。1927年に法政大学の哲学科の教授に赴任。1928年に人間学を基礎とした独自のマルクス解釈を展開し、「唯物史観と現代の意識」を刊行。
1930年に日本共産党への援助嫌疑で検挙・拘留され、法政大学の職を退く。1932年に「歴史哲学」を刊行、また哲学的論稿や著作を発表すると同時に批評家として活躍。1939年に「構想力の論理第一」を出版し、死後(1946年)に「第二」が出版される。1945年9月に豊多摩拘置所で獄死、享年48歳。