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    人間万事塞翁が馬」とは、古代中国の「淮南子」に記された老人の馬に纏わる故事に由来した、何が人生の幸・不幸かは分からぬもので、一喜一憂しても仕方がないとの意味のことわざである。
国境の塞の近くに住む老人の飼っていた馬が隣国に逃げた。老人は「これが幸運を呼ぶかもしれない」と平然としていた。すると、逃げた馬が隣国の優れた馬を連れて戻ってきた。老人は「これが不幸を呼ぶかもしれない」と心配した。
また老人の息子が、馬から落ち足の骨を折ってしまう事故があった。老人の心配が的中して隣国との間で戦争がはじまったのだが、息子は足のケガで戦争に行けずに命拾いしたといった故事である。
今秋、誰が次の総裁となるか一喜一憂のなか、女性初の自民党総裁が誕生した。順当にいけば、日本初の女性総理の誕生ともなるが、それも右眼でみるのと、左眼でみるのとではまるで違う。両眼でみればとも思うが、要は心眼の曇りである。いっそのこと眼を瞑ってしまえば、見えないものが心に映じまいか。あえて神さまも政から席を外す(眼を瞑る)のが神無月である。
今回は、作家の小川洋子さんと臨床心理士の河合隼雄さんとの対談「生きるとは、自分の物語をつくること」(新潮文庫)から、最後につづられた小川さんの故・河合さんへの追悼文(長いあとがき)の一部を紹介したい。
それは、対談の途中で逝去した河合さんと、残された小川さんとの未完の対話ともいえるもので、「『そうですよね、先生?』と私は先生の写真に話し掛けます」と結ばれている。
 
* * * 
 
対談の途中、先生は一度、深い悲しみの表情を見せられました。御巣鷹山に墜落した日航機に、九つの男の子を一人で乗せたお母さんの話が出たときでした。心弾む一人旅になるはずが、あんな悲劇に巻き込まれ、お母さんは一生拭えない罪悪感を背負うことになったのです。
その瞬間、先生の顔に浮かんだ表情、思わず漏れた声、宙の一点に絞られた視線、それらに接した私は、失礼にも「先生は本物だ」と確信しました。もちろん先生に対して何か疑いのようなものを抱いていたわけではけしてありません。
ただ、その一瞬を目の当たりにし、著作から感じていたことや実際お会いして抱いたイメージと、目の前にいる先生の存在がすべて滞りなく一つづきにつながったのでした。
一瞬にして先生は、今ここにいない、名前も知らない誰かの悲しみをキャッチし、自分のなかに取り込まれたのです。単なる対談の一つの話題としてあしらうのではなく、恐らく人間に課される最も大きな悲しみであろうそれを、そのお母さんと共有したのです。
心がよそに行っていたら、必ず患者さんにばれる、と先生はおっしゃっています。だから患者さんたちはきっと、先生の心が間違いなく自分のすぐそばにあると、感じていたことでしょう。心理学の専門でもない、患者でもない私が、こんなことを書くのは見当違いもはなはだしいと、よく承知しています。
ただ、私があのとき感じ取った先生の雰囲気に、こちらを無防備にさせる特別な力があったことだけは間違いありません。
さて、患者の苦しみを引き受けたあと、心理療法家はそれを口外できないわけですが、そのむずかしさがどれほどのものであるか、私には想像できません。私が体験するのはせいぜい友人から「ここだけの話にしておいてね」と口約束させられるくらいのことで、平凡な生活を送っていると、絶対内緒にしなければならない他人の秘密に触れる機会など、案外ないものです。
たとえ我慢できずについしゃべってしまったとしても、ただそれだけのことで済んでしまいます。それに比べ、先生が守りつづけた秘密はレベルが違います。「僕はアースされているから大丈夫」とおっしゃっていますが、ひたすら口を閉ざして秘密を守るのがむずかしいのと同じくらい、一度聞いた話を完全に忘れることもまた、できそうでできない技ではないでしょうか。
以前、アンネ・フランク一家の隠れ家生活を支援した女性、ミープ・ヒースさんに取材したとき、「一番苦しかったのはどんなことですか」とお尋ねしたところ、「秘密を守らなければならなかったこと」という答えが返ってきて、意外に思った経験があります。
配給切符を持たない彼らの食糧を手に入れる苦労でもなく、ドイツ軍に本棚の隠し扉を発見される心配でもなく、ユダヤ人を匿っている事実を自分が不用意に漏らしてしまう怖れの方が大きかったというのです。
追悼特集号の「考える人」のなかに、河合家所蔵の個人アルバムから、写真が何枚か掲載されています。それをみると、楽器を手にしている先生の写真が多いのに気づきます。(同時にまた先生がお母さまとそっくりな顔をされていることにも)兄弟編成の「クレー・カルテット」でフルートを吹く先生。京大オーケストラのメンバーと一緒の先生。お兄さんのマンドリンを弾く先生。
別のページには、「物欲のない人だったが、フルートだけには散財した」とのキャプションつきで、愛用のフルートの写真も載っています。ひたすら患者の秘密を抱え込む行為と、息を吐き出す行為。この二つが先生のなかでは、うまいことバランスを取り合っていたのかもしれません。
人間の現実と日々ぶつかり合い、それを自身の胸に地層のように堆積させた人が、どのような音色を奏でたのか、それを耳にするチャンスがなかったのは残念です。
2007年9月2日、京都でお別れ会がありました。私の斜め前に、三十代くらいと思われる女性が一人座っていました。その人は会の間中、ずっと泣いていました。大げさに声をあげて泣くのではありません。ただ黙ってハンカチで口元を押さえているだけですが、その背中に、ああこの人は今泣いている、と分からせる静かな表情があります。
広い会場は人で一杯でした。後ろの片隅に座った私からは先生の遺影はとても遠く、その小さな笑顔を拝見していると、本当に先生は秘密も苦しみもないところへ旅立ってゆかれたのだという思いにとらわれます。
私は斜め前の彼女の背中ばかり見つめていました。その人がどういう立場の方なのかは、もちろん分かりません。けれどそこからは、あまりにも素直な、まるで生まれ立ての赤ん坊が産声とともに、この世に向かって発するかのような悲しみがにじみ出ていました。
「悲しいですね」
声にならない声で、その背中につぶやいたとき、顔はみえないはずなのに、なぜか目と目で合図を送り合った気持ちになりました。献花の列に並び、祭壇の前まで来たとき、先生の遺影がとても明るく柔らかい光で包まれているのに気づき、はっとしました。
そしてすぐに、ライトが先生を照らしているのではない、先生自らが光を放っておられるのだと感じました。献花を終えたあと、その方は最後まで私に背を向けたまま、会場の外の人波に紛れて見えなくなりました。
「ブラフマンというのは、ユングが大好きな言葉ですよ」
このつづきを次回の対話の取っ掛かりにしましょう、とお約束したのが最後になりました。ブラフマンは、私が以前書いた小説に出てくる、とある動物の名前です。
ユングとブラフマンの関係を是非お聞きしたかった。そういう名前を、ルートと同じく、またしても私が何の意図もなく無意識につけてしまったことの意味を知りたかった...と、何度くりくりし願ったかしれません。
私の手元には今、三枚のメモが残っています。先生と対談をするうえで、私なりに考えた一応のイメージを走り書きしたものです。実際それに沿って話を進めていく、というつもりのものではなく、どちらかといえば編集者を安心させるために書いたようなメモです。
「個人と物語」「人類と物語」「国家・社会と物語」などのキーワードが箇条書きにされています。
 
		
    小川洋子(おがわ ようこ)
1962年3月、岡山県生まれ。1984年に早稲田大学第一文学部文芸科を卒業後、故郷・岡山に戻り川崎医科大学秘書室に勤務。1986年に退職し結婚。1988年に「揚羽蝶が壊れる時」で第7回海燕新人文学賞を受賞。1989年から「完璧な病室」「ダイヴィング・プール」「冷めない紅茶」で3回連続芥川賞候補となり、1991年に「妊娠カレンダー」で第104回芥川賞を受賞。また2004年に「博士の愛した数式」で読売文学賞・本屋大賞を受賞。ほかにも「完璧な病室」「アンジェリーナ」、エッセイ集「妖精が舞い下りる夜」など多数の著書がある。















 
    


