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インタビュー

最新のインタビュー

今月はインタビューをお休みし、特別編として「WORLD VIEW」を掲載いたします。

 「巣籠もり」や「おうち時間」といった言葉で呼ばれ、コロナ禍で強いられる予期せぬ「機会」(occasion)に、色々なところから関心が寄せられているのもおもしろい。再び9月末まで、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置の延長となった都道府県は少なくない。
 ただ食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋には、「巣籠もり」や「おうち時間」はちょうどよい「機会」とはなりそうである。「スポーツ」に疑問を挟む人もいるかもしれないが、スポーツこそ多種多様で、一人でできるウォーキングやジョギングもあれば、座してできるe-スポーツもある。
 「巣籠もり」「おうち時間」を踏まえていえば、「食欲の秋」は「全国珍味の取り寄せの秋」であり、また「読書の秋」は「深慮、思考の秋」である。「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」との書き出しで有名な、正岡子規の随筆「病床六尺」などは感染症で自宅療養中の人の励みにもなろう。
 全国の感染拡大のピークアウトは明らかだが、いまだ重症者の2000人余、入院・療養中の17万人余の方々がいることに心痛む思いである。1日も早い回復と生活復帰を心から祈りたい。変異株に依らず、感染防止の鉄則は「うがい」「手洗い」「マスクの着用」に尽きる。
 その上で、感染しやすい条件となる「三密」とは違った視点で、統計(均等)ではみえない偏在する「場所」について考えてみたい。「依報あるならば必ず正報住すべし」との言葉がある。環境(依報)と生物(正報)とは不可分の関係で、それぞれの生物には適した環境があるとも解される。
 SARS-Cov-2を生物と呼ぶには無理もあるが、SARS-Cov-2に適した環境に人が、不用意に足を踏み入れたことが感染の発端であろう。同様に感染拡大も一様(均等)ではなく、感染の適した場所に偏在しているわけである。それを見分けられるのは嗅覚であり、また第六感のような気がしてならない。
 今回は、著名な生態学者の今西錦司氏の著書「生物の世界」(講談社文庫)から「社会について」の一部を紹介したい。
 
* * *
 
 同種の個体同士は、その生活内容を同じゅうするから原則として相容れないものであるにもかかわらず、何故同種の個体というものがばらばらに存在しないで、ある距離内に見出されるのであるか。
 合目的という点からいえば、それによって繁殖を達成せしめていることにはなるが、それではまだこの現象のすべてを説明したことにならない。およそこの世界で相似たもの同士がお互いに孤独に存在しないで、ある距離内に見出されるということは、それらの相似したものが全然無関係に、別々につくり出されたものではなくて、元は一つのものから生成発展したという、この世界の性格の反映が感ぜられるのであり、したがって両者の間の距離というものが、やがては両者の関係の親疎すなわち、その類縁の遠近を表わすものでなければならないというように考えられるのである。
 けれども実際は、この血縁的関係がそれらのものの生活内容を同じからしめているのだから、その結果として原則的には相容れないもの同士を、ある距離内に存在せしめているということには、何か結縁的関係以外の要素があるのであろう。そして、それはやはりそれらのものが生活内容を同じゅうしているということから導き出されてくるのだと思われる。
 生活内容を同じゅうするということは、環境的にみれば同じ環境を要求しているということである。それでもし同一の環境条件が連続している場合を考えたならば、一つの環境を共有するということが許されないとしても、同じ生活内容をもつものが相集まってきて、その連続した環境を住み分けるということには、当然予想されていいことなのではあるまいか。
 それは同じ生活内容をもった生物が環境に対して働きかけた主体的行動の当然の帰結であるとみなされはしないであろうか。ここに同種の個体間を関係づけるほかの一要素として地縁的関係が生ずるものと考えられる。
 このように同種の個体が血縁的地縁的関係によって結ばれているということが、具体的には同種の個体が同じ形態を具え、同じ機能をもって、同じよう生活を営んでいるということにほかならない。
 生物において形態が違うということは、一般には分類学的な意味で種が違うということに解されるけれども、形態が違い、種が違うということは、棲む場所が違うことであり、その生活内容が違うことでなければならぬ。
 もちろん生物の形態に、その生活内容のすべてが刻印されているとは断言し得ないのであって、形態では全然区分ができないにもかかわらず、その習性でははっきりとした違いが認められるような二種類の生物が存在していても、これを怪しむには足りないが、あらゆる生物の生活内容が明らかにされる日はまだなかなかに来ないであろうと思われるから、生物の形態はある程度まで、その生活内容を反映したものと認めて、いい換えるならば、死物となって標本箱に陳列された生物の形態には分類学的な意義はあっても、形態の本来の意義はその生物が生き、自然に生活している状態において求められなければならないという生態学的な立場から、生物の形態を常にその生物の生活内容を反映したものとして受け入れられるであろう。
 このような意味で生物の形態に生活内容を含ませた場合には、これは生活形と呼ぶのである。実をいうと形態に生活内容を含ませることなく、生活内容に形態を含ませたものとして、私はこれに生態なる言葉を適用するのがもっともふさわしいと思うのであるけれども、今さら生態という言葉を定義づけるのも気が進まぬ話であるから、しばらく生活形という言葉を用いていこうと思う。
 すると同じ種類の個体同士というのは、血縁的地縁的関係の元に結ばれた生活形と同じゅうする生物であるということができるであろう。同種の個体がばらばらに存在するのではなくて、お互いにある距離をおいて集まるという理由を、血縁的地縁的な関係によるものであるといったが、血縁的といっても、その生物の生活内容の如何によっては、われわれから見てほとんど孤独生活といえるほどにお互いの間に距離が隔ったものであろう。
 また地縁的といったところで、波打ち際に寄せられた塵芥のように生物が環境によって運ばれ、飼育された場合のように自然状態にあっても生物が環境的に監禁されたものとは考えられないのである。それにもかかわらず、同種の個体分布を調べてみると、どんな生物にも一定の分布地域というものがあって、ちょうど一個の生物にその必要とする生活空間があるごとく、種というものにもまた種の生活空間といったものが認められるのではなかろうかということを考えさせる。
 種のなかから生まれ種のなかに死んでいく生物の個体は、種の単なる構成要素か、種は個体にとっていかなる形のものであり、いかなる振舞いをなすものであるかということになると、まだ今までの説明では充分でないように思われる。
 この問題を考えるのはなかなかむずかしい。むずかしいわけは、われわれの平素のものの考え方が、どうしてもわれわれ個体を中心としたものの考え方になっているからであって、種族や国家のことを考えるといっても、それは個々の人間の頭脳が考えるのである。
 しかし種族や国家は個々の人間の頭脳がつくり出したものではない。細胞が先にあるのでも個体が先にあるのでもないといえるように、われわれはまた種族が先にあるのでも個体が先にあるのでもないといえる。しかし個体が直ちに細胞であるのでもないし、また種族であるわけでもない。
 われわれが個体の立場にあって細胞の立場を考えたり、あるいは種族の立場を考えたりするということに含まれる、最も大きい危険の一つは、それらがそれぞれ次元を異にした存在であるということにかかっている。

今西錦司(いまにしきんじ)
 1902年1月、京都生まれ。1928年3月に京都帝国大学農学部農林生物学科卒業し、1933年3月に京都帝国大学理学部講師。1959年6月に京都大学人文科学研究所教授、1965年4月に日本人類学会評議員となる。同年5月に岡山大学教養部教授、1967年6月に岐阜大学長、岐阜大学名誉教授や京都大学名誉教授、日本民族学会理事、日本アフリカ学会顧問などを務める。
 登山家として国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。また生態学者として日本アルプスの森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態研究が有名。後者は住み分け理論の直接の基礎となり、京都大学理学部と人文科学研究所でニホンザルやチンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類学の礎を築いた。1992年6月に逝去。