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生成AIの急速な進化と、われわれの日常生活にも浸透し始めた実用化のスピードには驚かされる。米・OpenAIのCoT(Chain of Thought)を取り入れた最新モデルの「o1」を、ソフトバンクグループ代表の孫正義氏などは「ノーベル賞ものだと思いますね」と絶賛する。
確かに、2024年のノーベル物理学賞と化学賞はAI分野の研究者らに授与された。検索エンジンの「知る」ことからChatGPT(Generative Pre-Training)の「理解する」ことへと進み、「o1」ではなにも冠せず、はじめて(o1)「考える」能力をもったわけである。
「人間は考える葦」とはパスカルの至言だが、もはや「考える」のは人間の特徴(優位性)を示すものではなくなったようだ。孫氏は「Chain of Thought」を「論理的思考の連鎖」と訳し、「思考の速さではなく深さが嬉しい」と評するが、「深さ」にフォーカスすれば到底人間におよぶものではない。
「o1」といえども、考えるには(人間による)問題提起が必要で、自ら問題提起はできない。いわばAIに哲学的要求はなく、むしろわれわれが何を「o1」に求めるかが問われることになる。パスカルの至言を借りれば、「人間は自分が死ぬことと、『o1』の人間に対する優勢とを知っているからである。『o1』は何も知らない」である。
今回は2度目となる、哲学者の阿部次郎氏の名著「合本三太郎の日記」(角川選書)からその一部分を紹介する。「日記」と称するが、いわば哲学書だ。2024年の最後は脳に汗し、ともに人間としての哲学的要求に向き合いたい。
 
* * * 
 
生活の焦点を前に(未来に)持つ者は、常に現在のなかに現在を否定する力を感ずる。現在のベストに生きるとともに、現在のベストに対する疑惑を感ずる。ありのママの現実のなかに高いものと低いものとの対立を感ずる。したがって、彼の生活を押し出す力は常に何らかの意味において超越の要求である。
この如き要求を感ぜざる者は、ついに形而上的生活に入ることができない。女は愛してもらいたい心と、思ふ男に身も心も任せた信頼の心安さと、母たろうとする本能とにおののいている。そうしてこの心は、女の生活を不断の従属に置き、常住の不安定に置く。
この従属と不安定との苦痛を脱れんがために、何らかの意味において女性を超越せんとするは、女の哲学的要求である。人は現象界の流転に漂わされる無常の存在である。人のなかには局部に執し矮小に安んじ、自己肯定の自惚れに迷わんとする軽薄な性質が深くその根底を植えている。この無常とこの猥雑とこの局小とを超越せんとするは、人間の哲学的要求である。
自己超越の要求は、要するに不可能の要求であるかも知れない。しかし生活の焦点が前に押し出す傾向を持っている限り、不可能の要求はついに人性の必然にきざす不可抗の運命である。人はこの不可抗の運命にしたがうことによって、許される限りの最もいい意味において人となるのである。
押し出されるより外に生きる道がない。ひかれるより外に生きる道がない。そうして、この不可抗の要求に生きる者の心は常に謙遜でなければならない。足らざるを知る心でなければならない。自己満足(Self-sufficiency)ほど人生の沈潜に有害なものは断じてあり得ない。その一切の方面を尽くして、そのあらゆる意味を通じてSelf-sufficiencyは人生最大の醜陋事である。
 
何を与えるかは神さまの問題である。与えられたるものを如何に発見し、如何に実現すべきかは人間の問題である。与えられたるものの相違は人間の力ではどうすることもできない運命である。ただ天性を異にするすべての個人を通じて変わることなきは、与えられたるものを人生の終局に運び行くべき試煉と労苦と実現との一生である。
与えられたるものの大小においてこそ差別はあれ、試練の一生においては―涙と笑とを通じて歩むべき光と影との交錯せる一生においては―すべての個人が皆同一の運命を担っているのである。もし与えられたるものの大小強弱を標準として人間を評価すれば、或者は永遠に祝福された者で或者は永遠に呪はれた者である。
これに反して、与えられたるものを実現する労苦と誠実とを標準として人間を評価すれば、すべて人の価値は主として意思の誠によって上下するものである。そうして天分の大なる者と小なる者と、強い者と弱い者とは、すべて試錬の一生における同胞となるのである。
「天才」の自覚から出発すべきか、「人間」の自覚から出発すべきか。この2つが必ずしも矛盾するものでないことはいうまでもない。しかし出発点を両者のいずれにとるかは、人生に対する態度の非常な相違となる。「人間」の自覚を根底とせざる「天才」の意識は、人を無意味なる驕慢と虚飾と絶望とに駆り易い。
或者は自己の優越を意識することによって、自分より弱小な者を侮蔑する権利を要求する。或者は天才をてらう身振によって自己の弱小なる本質を強いる。或者は天才の自覚に到達し得ざるがために、自己の存在の理由に絶望する。
この種の驕慢と虚飾と絶望とは、彼らが能力ケンネンの大小強弱の一面から人生を観ている限り到底脱却し得ないところである。彼らの過は「人間」に与えられたる普遍の道を発券するに先立って、特殊の個人に与えられたる特殊の道を唯一の道だと誤信するところにある。
天才には天才のみに許されたる、特殊の寂寥と特殊の悲痛と特殊の矜持とがあるに違いない。したがって、天才には天才のみの歩むべき特殊の道があるに違いない。
しかし天才としての自覚を、人間としての自覚の根底の上に築くことを知れる者は、己れ一人の淋しい道を歩みながらも、なお平凡に生れついた者の誠実な、謙遜な、労苦に満ちた、小さな生涯に対して尊敬と同情とを持たなければならぬはずである。
平凡な者を指導すべき使命を感じなければならぬはずである。もし世に平凡な者に対する同情と尊敬とを欠き、平凡な者を指導すべき使命の自覚を欠く天才があるならば、彼の非凡は妖怪変化の非凡に過ぎない。彼は人間の代表者ではなくて仲間外れである。
平凡な者が彼の暴慢と自恣とに報いるに、反抗と復讐とをもってするは当然に過ぎる程の当然事である。凡人には天才の知らざる拘泥と悲哀と曇りとがある。実現せむと欲して実現し得ざる焦燥と、ささいの障害と闘うにあたっても血の油を搾らなければならぬ労苦と、無辺の世界のなかに小さく生きる果敢さの心とがある。
したがって凡才は、常に天才の知らざる羞恥の心をもって天才の天空を行く、烈日の如き眩しさを仰ぎ見る。しかし凡人としての自覚の底にもなお確固たる「人間」の自覚を保持することを知る者は、けして天才に非ざるの故をもって自分の生涯に失望しない。
小さい者がその小さい天分を実現し行く労苦の一生のなかにも、なお人間の名に値する充実と緊張とがある。内より温める熱と自然に滲み出る汗と涙とがある。内からの要求に生きる者にとって、第一義における自己の問題は「天才」の有無ではなくて、精神生活における不安である。
自分が天才でないという自覚によって全存在を覆す程の打撃を受けるのは、周囲の人との腕競べに生きようとする間違った心掛を持つているからである。俺が天才であるか、俺が天才でないか、そんなことはすべて俺には分からない。
しかし俺は今、「人間」の自覚を生活の中心とすることによって、漸くこの意味における「天才」の問題を確実に超越することができるやうになつたことを感じている。もしも俺は天才でなくても----多分俺は天才ではあるまい----俺にはなお「人間」の自覚がある。
そうして、この自覚は確実に俺の将来の進展を指導してくれている。俺は天才でないにしても、俺の生涯はけして無意味ではない。またまんまんが----俺は天才に生れているにしても、俺が天才の自覚から出発せずに人間の自覚から出発することは、少しも俺の天分を損ふ所以にはならない。そうしてこの自覚は他人に対する尊敬と包容との心を----一切の人類に対する同胞の感情を俺に教へてくれた。

阿部次郎(あべ じろう)
1883年8月、山形生まれ。第一高等学校では斎藤茂吉、岩波茂雄らと交わり、1907年に東京帝国大学文化大学哲学科卒。東京帝国大学では文学に傾倒し雑誌「帝国文学」を編集、卒業後は夏目漱石に師事し、門下の安部能成らと親しむ。慶應義塾大学、日本女子大学などを経て、東北帝国大学評議員、法文学部教授。帝国学士院会員。1954年には財団法人阿部日本文化研究所設立。また「三太郎の日記」を1914年に出版、活発な評論活動を行い、雑誌「思潮」(現『思想』)主幹を務めた。1959年10月に東北大附属病院で逝去。