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囲碁・将棋の対局では「下手の考え休むに似たり」などといわれるが、「案ずるより産むが易し」で、心配されていたドナルド・トランプ大統領と石破茂首相の初会談も順調な滑り出しである。首脳会談後の共同会見では、暗礁に乗り上げていた日本製鉄によるUSスチールの買収計画も、内実は「買収」ではなく「投資」との理解で合意した旨が発表されたことにもうかがえる。
もちろん、単なる言葉のいい換えではなく、買収計画の中身は「投資」の意味合いが強いと理解され、日鉄の一方的な利益になるような内容ではないとの認識を米側と共有できたことによる。トランプ大統領も、会見で「買収ではなく多額の投資を行うことで合意した。経営トップとも会う予定で、とてもすばらしい会社だ」と述べている。
コロナパンデミックを経て、面談や会議などリモートが多用されるようになってきたが、やはり物事の内実に迫るにはリアルな対面を置いてはほかにない。いわばリアルな世界にこそ「買収の投資」があり、「会談の実」が存在するものである。
グラフィックデザイナーの原研哉氏は「見慣れたものを、未知なるものとして再発見できる感性も創造性である」と、また「ものの見方は無限であり、まだ発見されていないそれらを目覚めさせ、活性させることが『認識を耕す』ことである」というのだ。
今回は、その原研哉氏の著書「デザインのデザイン」(岩波書店)から「リ・デザイン-日常の二十世紀」の一部を紹介する。すべて腑に落ちることばかりではないが、「リ・デザイン」はタイトルの「デザインのデザイン」を具現化するアクションでもある。また「再生」と共通したイメージで、「乙巳」の2025年に相応しいテーマでもある。
* * *
「リ・デザイン」というのは簡単にいうとデザインのやり直しである。ごく身近なもののデザインを一から考え直してみることで、誰にでもよく分かる姿でデザインのリアリティを探ることである。ゼロから新しいものを生み出すことも創造だが、既知のものを未知化することもまた創造である。
そんなふうに前章の終わりで書いたが、デザインというものの姿を見定めるにはむしろ後者が相応しいのではないかと思うようになった。1990年代の約10年間を通して、僕はしばらく頭の隅にこの「リ・デザイン」というコンセプトを携えってきた。
そして新しいマカロニのデザインの展覧会を開いてみたり、「米」という商品の相応しい姿を探してパッケージを試作したり、「日用品」のもう一つ違う姿を想像してみたりと、このコンセプトをめぐって、いくつかの計画を実行に移した。
その過程のなかで、デザインに向き合う多くの人々や考え方と出会った。ここで一度それらを整理してみたい。僕たちが生活する環境を形づくるもの、つまり家や床や風呂桶、そして歯ブラシといったようなものは、すべてが色や形やテクスチャーといった基本的な要素から構成されていて、それらの造形はオーガニゼーションへと向かう明晰で合理的な意識に委ねられるべきである。
そういう発想が、いわゆるモダニズムの基本であった。そして、そういう合理的なものづくりを通して、人間の精神の普遍的なバランスや調和を探ろうとすることが、広い意味でのデザインの考え方である。いい換えれば、人間が暮らすことや生きることの意味を、ものづくりのプロセスを通して解釈していこうという意欲がデザインなのである。
一方、アートもまた新しい人間の精神の発見のための営みであるといわれる。両者とも、感覚器官でキャッチできる対象物をあれこれと操作する、いわゆる「造形」という方法を用いる。したがってアートとデザインはどこが違うのかという質問をよくうけることになる。
僕自身では、アートとデザインをことさらに結合させたり分離させたりすることに意義は感じていないので、ここでその定義など述べるつもりはないが、デザインという概念や「リ・デザイン」というプロジェクトのある側面を整理して把握していただくために、少しだけこの二つの差異について話しておきたい。
アートは個人が社会に向き合う個人的な意志表明であって、その発生の根源はとても個的なものだ。だからアーティスト本人にしか、その発生の根源を把握することができない。そこがアートの孤高でかっこいいところである。もちろん、生み出された表現を解釈する仕方はたくさんある。
それを面白く解釈し、鑑賞する、あるいは論評する、さらに展覧会のようなものに再編集して、知的資源として活用していくというようなことがアーティストではない第三者のアートとのつき合い方である。
一方、デザインは基本的には個人の自己表出が動機ではなく、その発端は社会の側にある。社会の多くの人々と共有できる問題を発見し、それを解釈していくプロセスにデザインの本質がある。
問題の発端を社会の側に置いているので、その計画やプロセスのなかに、人類が共感できる価値観や精神性が生み出され、それを共有するなかに感動が発生するというのがデザインの魅力なのだ。
「リ・デザイン」という言葉のなかには、あらかじめ社会のなかで共有され、認知されている事柄をテーマにするという意味が込められている。つまり「日用品の」というテーマ設定は、ことさら奇抜なものではなく、人々に「共有」されている価値を扱うデザインの概念を検証し直すには最も自然で相応しい方法なのである。
僕はグラフィックデザイナーである。ただし扱っている領域は視覚的なものだけではない。触覚をはじめとする様々な感覚のチャンネルに向けてメッセージをつくっている。たとえば一枚の展覧会のチケット。印刷された写真や文字は視覚的なものが、その情報を載せている紙は抽象的な白い平面ではない。
それは指先に繊維の質感を伝えてくる物質であり、微かではあるが重みもある。だから、僕らはそれを手のひらのなかに丸めてみたり、二つに折り畳んだりするのだ。つまり、それは触感に刺激を運んでいる。そして、もしそこに刷られているのが深い森の写真だとするなら、それは視覚だけに止まらず、聴覚や嗅覚などの記憶を微妙に刺激し覚醒させている。
結果として、見る側の脳裏にはいくつもの刺激の積層による複合的なイメージが生まれるのである。要するに情報を享受する人間は感覚器官の束である。そういう受け手に投げかけるべく、デザイナーは種々の情報を合わせてメッセージを構築しているのである。
一般的に「五感」とよくいわれる。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という五つの感覚を指す言葉だが、これは「五官」すなわち目、耳、皮膚、鼻、舌といった感覚器官に対応した感覚の分類だろう。しかし、ちょっと考えただけでも、感覚が五つに集約されるはずもない。
たとえば、指先で微かに触れるようなデリケートな接触と、手のひらでドアノブを押すような感覚は同じ「触覚」と分類するには抵抗がある。骨や腱に対する刺激はむしろ「圧覚」とでも呼んだ方がいいかもしれない。
また味覚といっても、これは口腔や舌の触覚と嗅覚が微妙に絡み合った感覚であって、口いっぱいにパンを頬張ったときと、舌先で甘いクリームを舐めるときの感じ、あるいは熱いスープを啜る感覚は同じ「味覚」と呼んでいいものかどうか。(中略)それらは記憶のなかに経験された感覚として蓄積されていて、それを示す写真を媒介するだけでも、脳裏に再生され豊かなイメージを形成する。
感覚は、このように互いに連携し合っている。人間は、極めてセンシュアスな受容器官の束であると同時に、敏感な記憶の再生装置を備えたイメージの生成器官である。人間の頭のなかに発生するイメージはいくつもの感覚刺激と再生された記憶によって織りなされるスペクタクルである。そして、まさにそこがデザイナーのフィールドなのである。
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原 研哉(はら けんや)
1958年、岡山県生まれ。岡山市立弘西小学校、同市立旭中学校、岡山操山高等学校を卒業。1983年に武蔵野美術大学大学院を修了し、日本デザインセンターに入社。1998年に長野冬季オリンピックの開会式と閉会式プログラムや2001年に松屋銀座のリニューアル計画、「無印良品」のボードメンバーに参加。2005年、愛知万博のプロモーションを担当。ほかにも商品のデザイン、世界各地で企画展示・個展などを多数開催。サントリー学芸賞芸術部門受賞「デザインのデザイン」「白」「日本のデザイン」など著書多数。2024年に紫綬褒章。グラフィックデザイナー協会副会長、日本デザインセンター代表取締役、武蔵野美術大学教授。