• ニュースフラッシュ
  • ワールドビュー
  • 製品情報
  • 包装関連主要企業
  • 包装未来宣言2020

トップページ > World View

World View

最新のWorld View

立夏を過ぎ、七十二侯では「蛙始鳴(かわずはじめてなく)」を迎えた。市場では、備蓄米の放出で米価高騰の沈静に躍起だが、産地ではいよいよ田植えの準備で代掻きや畦塗りが始まる。その田に水が引かれると、冬眠から目覚めた蛙が卵を産む。それが孵化して水田を泳ぎ回るおたまじゃくしとなる。
いうまでもなく「諸行無常」であり、また「潮の干ると満つと月の出づると入ると、夏と秋と冬と春との境には必ず相違する事あり」とは、いにしえの至言である。
トランプ米大統領は、ローマ教皇フランシスコの葬儀から帰国して間もなく、ローマ教皇に扮した自身のAI生成画像をSNSに投稿した。さらにホワイトハウスがXの公式アカウントに同画像を投稿し炎上した。
誰もがトランプ氏の真意を量りかねていたところ、画像制作には関与しておらず、投稿は冗談と一笑に付した。おまけは、記者団に対し画像を見た前日の晩にメラニア夫人から「キュート」といわれたと語ったようで、笑うしかない。
また別の日には、関税引き上げを回避したい貿易相手国・地域に対し、「関税水準を決めるのは自分だ」と述べ、度重なる交渉に従事するといったアプローチから距離を置く姿勢を示したとのことだ。
またカナダのマーク・カーニー首相との会談での「われわれは非常に公正な数字を提示し、これが米国の望むものだと示すつもりだ。それでめでたく合意成立となる。相手国は『素晴らしい』といって買い物を始めるか、もしくは『良くない』というだろう」との発言なども、果たして冗談なのか本気なのか。
俳人・村上鬼城は「川底に蝌蚪(おたまじゃくし)の大国ありにけり」との句を詠むが、かの国も川底の大国であればさしたる影響もあるまいに...。
今回はE・トッド、F・リスト、D・トッド、J-L・グレオ、J・サピール、松川周二、中野剛志、西部邁、関曠野、太田昌国、関良基、山下惣一による著作「自由貿易という幻想−リストとケインズから『保護貿易』を再考する」(藤原書店)から、「『ホモ・エコノミックス(経済人)』とは何か」(聞き手・訳:石崎晴己)と題するE・トッド氏へのインタビューの一部を紹介したい。

* * * 

石崎 1998年にフランス・ガリマール社から出版されたフリードリッヒ・リスト「経済学の国民的体系」の仏語版にあなたが寄せた序文を読んで、私にとって最も印象深かったのは、あなたが、自由貿易主義の基盤である「オム・エコノミック」(経済人)というのは、啓蒙によって考え出された「オム・ユニヴェルセル」(普遍的な人間)から直接由来する抽象的な実態であるとみなしている点です。それは普遍的にして、理性的な存在です。

トッド 「普遍的な人間」を「理性」に還元するかというと、私はそこまで行きません。理性だけが人間ではないからです。子どものころ、父がいっていたセリフで、最も印象に残っているのは「人間のなかには常に不合理な部分がある」というものです。
純然たる理性的(合理的)な人間というものは、具体的にはいったい何なのでしょう。分裂症か偏執狂ということになってしまいます。人間を単に理性にのみ還元するということは、欠損を抱いた心理現象に還元することです。人間には感情や情愛もあるのですから、理性のみの人間というものは、魂の不具者であるわけです。

石崎 「経済人」の唯一の関心ないし目的は、最小の価格でものを買うことだ、というわけですね。

トッド ですからそれは「普遍的な人間」の概念の病理的な解釈なのです。「普遍的な人間」には、博愛性はないなどということは、どこにも書いてありません。とくにフランス人の「普遍的な人間」は、とかく恋に陥るのです。「ホモ・エコノミックス」(経済人)のパラダイムに組み込むことのできないものがあるとすれば、それは恋愛感情です。

石崎 私がたいへん気に入ったのは、リストが自由貿易論者たちを「学校=学派」と呼んで、スコラ学になぞらえ、こう述べているところです。「純粋経済学者の出発点たる啓示された非合理にあたるのが、逆説的にも合理的消費者というものにほかならない」と。真に皮肉たっぷりです。この「啓示された非合理」というものは、たとえば「キリストの復活」とか「無原罪のお宿り」といったもののことですから。

トッド その通りです。経済学的分析というのは、まず最初は一つの仮説です。さらに公理になることもあります。数学というものは、仮説で機能するのです。証明することのできない事柄を措定して、そこから出発して一つの体系を構築するのです。
数学それ自体には、現実に到達するとの主張はけしてありません。そこである段階までは、この「経済人」という仮説で、ある種の現象を説明できるわけです。たとえば、需要と供給の法則などで、それは現に存在します。
しかし人々が、それしかないと考えはじめ、そうした仮説で経済行動の全体を説明できると考えはじめるとなると、体系は暴走し、手が付けられなくなるわけです。たとえば、働くことが好きな人がいるという事実を説明できなくなります。
たとえば「経済人」という仮説は、日本人にはとくに当てはまりません。日本人は働くことが好きです。私も好きです。たとえば精神分析の結果を取り上げてみるなら、フロイトには心的均衡が良好であるためには、愛し、働く必要がある、というようなセリフが見つかります。
経済学的分析の仮説など、どこにも見当たりません。フロイトは、心的均衡が良好であるためには、最小の価格でものを買う必要がある、などとはけしていっていないのです。もし働くことが好きなら、それだけで経済学の仮説と矛盾してしまいます。
愛については、子どもへの愛は基本的に他愛的なものである、とさえいうことができるでしょう。子どもへの愛は、社会の均衡にとって完全に基本的なものですよ。それこそが社会の再生産を可能にするのですから、子どもというのは、それに対して人が営々として、返してもらうことのないものを与えつづける相手です。
子どもたちはやがて次の世代の者にそれを返すだろうと、期待するわけです。無償の贈与であるわけです。子どもへの関りとは、無償の贈与であり、それはこの上なく反経済的な行為なのです。ちなみに、この主題について、リストは、私にいわせれば最も見事なセリフを吐いています。
「豚を育てる人間は生産的であるが、子どもを育てる人間は、非生産的である」という、経済学者的な考え方を批判したセリフです。経済学にとって、それは経済学批判の最も見事なセリフの一つです。気違いじみたアグロサクソンなら、自分の子どもを育てることで、人は自分の遺伝子を保護しているのだ、などというかもしれません。
現にこういう理論があります。しかし真実は、人間の活動のかなりの部分は、愛他的である、ということです。数年前フランスで、愛他主義について見事な本を書いた人がいます。
ミッシェル・テレスチェンコの「人間性かくも脆い釉薬」で、そのなかで彼はたとえば、経済学的分析の、できるだけ少ないことをやって、できるだけ多くを得ようとしなければならない、という考えでいくと、愛他行為というものは、常に犠牲的なものになってしまう、と述べています。
つまり、愛他行為とは、ほとんど病気すれすれのマゾヒズム的行為で、愛他的な人間は、何か大切なものを奪われている、ということになります。しかしテレスチェンコがその本のなかで示したのは、善をなすことが、自分に幸福をもたらす、完全に非犠牲的な愛他行為というものは存在する、ということです。
非犠牲的な愛他行為がなければ、社会は機能しなくなるでしょう。そして、それは「経済人」の概念と完全な矛盾関係にあるのです。

エマニュエル・トッド(Emmanuel Todd)
1951年フランス生まれ。パリ政治学院を卒業し、英・ケンブリッジ大学で博士号を取得。米国の衰退期入りを指摘した2002年の「帝国以後」は世界的ベストセラー。家族構成や出生率、死亡率から世界の潮流を読み、旧ソ連の崩壊やアラブの春、トランプ大統領誕生、英国のEU離脱などを当てる。大変な親日家で2011年の来日時には、東日本大震災後の被災地を訪れる。

石崎晴己(いしざき はるみ)
1940年東京生まれ。早稲田大学仏文科卒後、1969年に同大学院博士課程単位取得満期退学。ナンシー大学博士課程に留学ののち、立正女子大学助教授、青山学院大学文学部教授、同学部長、青山学院大学総合文化政策学部教授、同学部長等を経て、青山学院大学名誉教授。ジャン=ポール・サルトルを専攻、ピエール・ブルデューやエマニュエル・トッドの紹介・翻訳でも知られる。2023年10月に癌のため死去。