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生活に用のある包装
イラン南部の女子小学校が爆撃を受け、児童ら175人の死亡した事件を巡り、米・ニューヨーク・タイムズは攻撃を実施したのは米軍の可能性が高いと報じた。ロイター通信も「米軍の可能性が高い」とする米当局者の発言を伝えており、民間人攻撃を禁じた国際法違反との批判は国内外で強まっている。
米国防総省は経緯を調べているが、米国とイスラエルの両国はいずれも責任を認めない。被害を受けた学校は、ホルムズ海峡に近いイラン南部ミナブにあり、近くにはイラン精鋭軍事組織「革命防衛隊」の基地がある。当時、校舎では授業が行われており、犠牲者の大半は7~12歳の児童である。
また、米国とイスラエルによるイラン攻撃は中東に拡大する様相であり、世界のエネルギーや原材料の供給に広範かつ深刻な影響のおよぶ可能性も指摘される。物流の要衝のホルムズ海峡封鎖で、世界の海上貿易額の約2%が事実上利用不能となった。
中東は航空貨物輸送でも要衝であり、すでにトヨタ自動車が2026年4月末までの2ヵ月間で中東向けの約4万台の減産を発表するなど、このまま長引けば自動車に止まらず、食品、半導体など産業分野を問わず、深刻な影響を招く恐れがある。
いわば、これが戦争である。政治指導者らは、なぜ残酷で悲惨な戦争の現実を直視できないのか、なぜ不幸な戦争の歴史に学ばないのか。愚かな政治指導者らに率いられた国民はまことに哀れである。もちろん政治指導者を選んだのは国民だが、国民はけして身に深刻な影響のおよぶ戦争など望んではいない。
10代の子どもでさえ、「中長期のビジョンもなしに、どうやって戦うの⁉」との素朴な疑問が湧くのである。まして政治指導者が、中長期の視野に立って、いかなる状況となっても戦争をしない選択を模索できないはずがない。
今回は、作家の吉川英治氏の長編小説「新・平家物語(一)」(吉川英治歴史・時代文庫47)の冒頭(貧乏草)から、その一部を紹介したい。また異例となるが、次回は完結の「新・平家物語(十六)」の最後(吉野雛)から一部を紹介する予定だ。
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平太よ。また塩小路などをうろうろと、道草くうて、帰るではないぞ」。使の出がけに、清盛は父忠盛から背へ喚わめかれた。その声に、たえず背を追われているような彼の足つきだった。何といっても、父は怖い。
一昨年、保延元年である。その父親について、彼は初めて四国、九州へまで渡った。在京の兵を率い、内海の賊徒を平定に征いったのだ。春四月から八月まで掛かって、海賊の頭株以下三十余人を数珠繋ぎにし、意気揚々と都へ凱旋したときの晴れがましさは忘れ得ない。
清盛はそれ以来、父への認識を改めた。怖さが違ってきたのである。少年時から家庭を通じて、彼の心に映されてきた父なる者は、およそ社交嫌いの物ぐさで、出世欲もなければ経済的なあたまもなく、ただ貧乏性を頑なに守ることだけが強い一武人としか見えなかった。
が決して、それは童心の描き上げた父親像ではなく、多分に母から日ごろに吹っこまれる愚痴やら環境にも依るものだった。物心ついて以来の彼の記憶によれば、都も場末の今出川の荒れ屋敷に、十年の余も雨漏りの繕い一つせず、庭草も刈らず住み古して、家のなかでは、父と母とがのべつ夫婦喧嘩ばかりやっていた。
そのくせ、平太清盛を頭にして次男の経盛だの、三男坊だの、四男坊だの、子どもばかりは、次つぎに産まれていた。その父は、しかもとかく官途をきらって、鳥羽の院へも御所の衛府へも、とくに召されでもしない限りは、出仕したためしがない。家計は、伊勢の禄地から上がる稲が唯一の収入で、折々の賜わり物だの、役得の実入りなどは一切なかった。
清盛にも、このごろやっと分かってきた。両親のいがみ合いも、原因はいつもそこらにあるらしい。母は口達者で、良人の忠盛からいわせると、油紙に火がついたようによく喋る女なのである。かの女が、忠盛へまくし立てる決まり文句は、いつもこうだった。
「二言目には、良人に向かってとすぐ怖い顔をなさいますが、わが家に、そんな立派な良人顔があるとは、思いもよりませんでしたよ。あなたは、もともと、伊勢平氏の田舎育ちで、汚さい貧乏も、性に合っているかもしれませんが、わたくしは都育ちです。親類縁者とて、みな藤原一門の公卿堂上ばかりですからね。こんな雨漏りだらけな屋根の下で年中、芋粥や稗飯ばかりを嚙みし、秋といっても月見の御宴に伺えるではなし、春が来ても豊楽殿のお花見などは他人のこと。人間ともムジナとも分からぬ日を、毎日こうしてくり返してゆく生活なんて―わたくしは、自分の未来に夢にも思っていませんでした。ああ、わたくしは何という不幸せな女なのであろ。子どもさえいなかったら、こんな女の一生を送ってはいなかったのに」
この程度は序曲である。忠盛さえ黙っていれば、めんめんたる愚痴と悲嘆は、終わることを知らないのが常であった。一体かの女は、どんな点を最もいいたいのか。天に哭し地に訴えたいのか。子の清盛も聞き飽いているが、要約すれば、およそ次のようなことらしい。
まず第一は、良人なる忠盛が懶惰で、生計を省みない。幾年でも家にこもって坐食しているほか何の能もない。第二の不平は。自然、親類の藤原一門とも、往来が絶え、宮中の五節会やら、折々のお催しなどにも気恥かしくて出られない。
あたら、栄花のできる身に生まれながら、つい女の一生をめちゃくちゃにしてしまった、という痛恨。以上のほか、ややもすると。「子どもさえなければ」という喧嘩の口走りがきっと出る。母の、その最後の極まり文句は、未熟な清盛の心をぐざと刺した。
彼は、わけもなく辛い、悲しい、嗚咽にせかれた。そしてもう十六、七ともなったころには自然、歳に似合わぬませた眼で、母の胸を臆測した。母は、父に嫁いだのを後悔している。
ままになるなら今でも別れたいのだろう。そして離別して遅まきにでも、栄花のできる世界へ帰り、よく口癖にいう親類の公卿仲間の女たちのように、月を簪し花を着て、牛車に乗り歩き、あの少将、この朝臣と、浮かれ男相手に恋歌などを取り交わして、源氏物語のなかの女性みたいな生活を、いっぺんでもしてみたい。
そうでもなければ死にきれない。女と生まれた甲斐もないと、あんなふうに、折々油紙に火がつくものに違いない。無条件に母を母と信じきれないで、母を観察する眼ばかり日々養われている子の不幸は、いうまでもなかった。
清盛とて、二十歳近くにもなれば、これくらいな義憤はもった。世間の例では、子どもは母親びいきと決まっているが、彼の家庭では、あべこべだった。父に加担しないのは、まだ母の乳房にいる末子と、わけの分からない三男、四男だけで、次男の経盛なども冷静な性たちだけに、もの狂いするときの母の唇を、ときには憎そうにまで冷やかな眼で見ていることがある。
そんな折り、この兄弟にとって世にも情けない気がするのは、父その人の姿だった。まるで妻にこき下ろされるために生きている男のように、黙ってやり込められているではないか。世間のあだ名にされている瞼の皮のヒッつれたスガ目をふせて、じっと自分の膝の拳を見ている父。
顔にあばたはあるし、あだ名の通りなスガ目だし、四十幾つの男ざかりだが、父は確かに醜男ではある。正直、子の清盛でもそう思う。それにひきかえ母は美しい。まだ二十代とも見えるほどだ。あれで五人の子の母かと、世間の怪しむのも道理である。
その代わり、いくら貧乏が迫ろうと身の粧は崩さなかった。見るに見かねて、召使たちが、食糧の工面もする。そして、垣の古竹やら床板をはいで炊の焚物にしたり、幼い子らが、垢じみた身なりでピイピイ泣きながら、尿の垂れ流しをしていようと、かの女は知った顔つきではない。
吉川 英治(よしかわ えいじ)
1892年、神奈川県生まれ。家運が傾いたため、1903年に小学校を中退。職業を転々としながら作家活動をつづけ、1921~1923年まで東京毎夕新聞社に勤務し、「親鸞記」などを執筆。1933年の「鳴門秘帖」で人気作家となり、大衆小説の代表的な作品「宮本武蔵」で多くの読者を獲得した。
戦後は「新・平家物語」「私本太平記」などの長編を執筆し、幅広い読者層に親しまれ、「国民文学作家」として1960年に文化勲章を受章。ほかにも池寛賞(新・平家物語)や文藝春秋読者賞(忘れ残りの記)、朝日文化賞(新・平家物語)、毎日芸術大賞(私本太平記)など数々の賞を受賞。1962年9月に肺癌で死去。享年70歳。没時に勲一等瑞宝章を叙勲。







