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生活を物語る包装
前回での予告通り、今回は作家・吉川英治氏の長編小説「新・平家物語」(講談社)の最後を飾る「吉野雛」から、その一部を紹介する。「なぜ最初と最後なのか?」と問われれば、1950〜1957年の7年間にわたり連載された「長編小説だから」以外の答えはない。
すでに「新・平家物語」を完読されている人は多いとは思うが、まだ読まれていない人には是非とも完読してほしい一書である。70年近く前に書かれた歴史小説なのだが、時代を超えてわが身に迫る内容であり、むしろ今(混迷と変化の時代)読むにふさわしい小説ではなかろうか。
「新・平家物語」は、保元・平治の乱から壇ノ浦の戦いまで100年にわたる源平の興亡を描いた古典「平家物語」をベースに、人間ドラマの息を吹き込んだ歴史小説である。そこには吉川氏の視点で、平清盛や源頼朝・義経といった英雄だけでなく、社会風俗や庶民の生活が生き生きと描き出されている。
もし、先の「なぜ最初と最後なのか?」との問いに、あらためて答えを見出そうとすれば、まさに「新・平家物語」が庶民の生活描写にはじまり、庶民の生活描写に終わる物語であるからだ。「吉野雛」では、吉川氏は架空の僧医で崇徳上皇に仕えた水守の阿部麻鳥に、こんなことを言わせている。
「人おのおのの天分と、それの一生が世間で果たす、職やら使命の違いはどうも是非がない。が、その職になり切っている者は、すべて立派だ。なんの、人間として変わりがあろうか」と。
それは、父親の事業の失敗で小学校を中退し、横浜で港湾労働者や小間物行商など様々な労働を経験し、また船具工の作業中に重傷を負うなど、様々な生活の苦闘のなかで文学を志した吉川氏自身の経験に基づくものである。経験に勝る財産はないのである。
* * *
もしこれが、見ず知らずの、よその老夫婦であるにしても、彼は、その二人だけの恍惚を、そっとしておこうとしたに違いない。―威かしてはいけない。そう考えて、彼も、そこらへ腰を下ろした。そして、気がつくまではと、彼は、花よりも、老いたる両親の珍しい背に見とれていた。
----この辺で、と。
麻鳥夫婦は、今朝旅籠でこしらえてもらって来た弁当を、膝の上で解き合って、食べつつ、花を眺めつつ、物もいわずにいたのであった。いわぬはいうにまさる、ほどな理解が、自然何十年もの間には、二人の仲にでき上っていた。
今、お互いは、何を胸で想っているのか、たぶん、それも交響し合っているに違いない。だから、飽くこともないのであろう。ひと箸、口へ運んでは、また手の箸を、しばらく忘れている。そして、蓬は蓬、麻鳥は麻鳥で、「ああ、随分色々なことがあったが、長い長い年月を、別れもしないで」と、夫婦というものの小さい長い歴史を、どっちも、無言の胸に紐解いていた。
----思えば恐ろしい過去の半世紀だった。これからも、あんな地獄が、季節を惜して、地へ降りて来ないとは、神仏も約束はしていない。自分たちの、粟ツブみたいな世帯は、ときもあろうに、あの保元、平治という大乱前夜に、門出していた。
----よくもまあ、踏み殺されもせずに、ここまで来たものと思う。そして夫婦とも、こんなにまでつい生きて来て、このような春の日に会おうとは。絶対の座と見えた院の高位高官やら、一時の木曾殿やら、平家源氏の名だたる人びとも、みな有明けの小糠星のように、消え果ててしまったのに、無力な一組の夫婦が、かえって無事でいることなどは、何か不思議でならない気がする。
「よくよく、私は幸せ者だったのだ。これまで、世に見て来たどんな栄花のなかのお人よりも。...また、どんなに気高く生まれついた御容貌よしの女子たちより」。蓬は、やわらかな若草のすわり心地へ、こう心で答えずにはいられない。
親しく、自分がお仕えした常盤さまは、あのような御運の末だし...。そのほか、女院、姫宮、お局から、君立ち川の白拍子まで、およそ、美しいがゆえに、かえって呪われ、あたら野山の草庵に逃れて、黒髪をおろした花々なども、どれほどか数もしれない。
「...それなのに、私という愚痴な妻は」。かの女は、思い比べて、そっと悔やんだ。もう鬢も真っ白な良人の横顔へ、ひそかな詫びも胸でしていた。けれど、かの女の良人にすれば、「それは、あべこべだよ」といいたいであろう。―麻鳥の方こそ、じつは、この吉野へ来たら、老いたる妻へ、一度は男の本音として、「よく、私みたいな男に」と、礼やら詫びをいおうと考えていたのである。吉野の花を見せるよりは、本当の気持ちはそれだった。
今日まで何一つ、これという楽しみも生活の安定も与えず、雑巾のように使い古してしまった妻へ、そしてわがまま男の意志へ、なんのかのとはいっても、よくついて来てくれた妻へ、彼はあらためて何かいってやりたい。
けれど、そうした男の胸のものを、こっそりいい現わせる言葉などは、見つからなかった。真情とは、そんな簡単に出して見せられるものではなかった。―だから、さっきから黙っていた。が、蓬には良人のそうした気持ちは充分なほど分かっていた。
二人の膝をめぐって、陽炎がゆらめいている。陽炎は、二人の言葉だった。やっと箸も終わって、「おいしかったねえ。...蓬」と、初めてそこで声が聞かれた。「ほんとうに、夢のなかで食べているみたいに、食べてしまいました」。
「ほら、鶯が鳴いているよ。迦陵頻伽と聞こえる。極楽とか天国とかいうのは、こんな日のことだろうな」
「ええ、わたくしたちの今が」
「何が人間の、幸福かといえば、突き詰めたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、一番の幸福だろうよ。これなら人も許すし、神の咎めもあるわけではない。そして、誰にも望めることだから」
「それなのになんで、人はみな位階や権力とかを、あんなにまで血を流して争うのでしょう。もうもう止めてくれればよいに」
「止めれば、義経の君のようになる。そういう仕組みにできている世のなかだから恐ろしい。また世のなかは、そうしつつ進んでゆく。武家幕府とやらになっては、なおさら、烈しくなるかもしれぬ」
「疑いもなく、きっと思いを修羅に断って、私たち夫婦のように、どこか都の隅で仲良くお暮しなされていたろうな」
「静さまと?」
「むむ。...それで思い出したが、静さまは、そのあとも生きていらっしゃるといううわさがある。うわさはありながら、たえて世間にお姿も見せぬのは、やはり髪を剃されて、山の奥かどこかで、殿の御菩提を弔うてでもいるものか」
「そうかもしれません。女の私が静さまのお心になってみても、今の世のなかでは、そうするしか...」
「そうだな。ほかに女の途もない。男ならば、また生き方もあろうがの」
「けれど、うちの麻丸なども、あれで一体、どうなるんでしょう」
「鵜八どのも、よく働くといっているし、もう心配はあるまいよ」
「でも、あんな子ですもの。今はおとなしくしていますが」
「そう案じては、きりがない。あれの放埓は、親の落度だ。あのころ、私の愛情もあの子へ、本当に届いていなかった。老いてからつくづく思う。これからは、親のわしが心がける」
「それにしても、医師のあなたの子が、生涯手を真っ黒けにして、染屋の紺掻き男などで終わったら、世間も笑うじゃありませんか」
「ばかをおいい」、つい麻鳥は口癖で、しかってしまった。
「笑う世間の方がおかしい。なぜ、紺掻き男では恥ずかしいのかい。近頃、わしは親として、喜んでいるんだよ。―ときおり、鵜八どのの染場へ寄ってみても、あれが、わき目もふらず大勢の職子に交じって働いている。やれやれ、これでよかった。一人の悪徒を真面目に返せば、世間の害がそれだけ減る。親のわしも申し訳が立つ」
吉川 英治(よしかわ えいじ)
1892年、神奈川県生まれ。家運が傾いたため、1903年に小学校を中退。職業を転々としながら作家活動をつづけ、1921~1923年まで東京毎夕新聞社に勤務し、「親鸞記」などを執筆。1933年の「鳴門秘帖」で人気作家となり、大衆小説の代表的な作品「宮本武蔵」で多くの読者を獲得した。
戦後は「新・平家物語」「私本太平記」などの長編を執筆し、幅広い読者層に親しまれ、「国民文学作家」として1960年に文化勲章を受章。ほかにも菊池寛賞(新・平家物語)や文藝春秋読者賞(忘れ残りの記)、朝日文化賞(新・平家物語)、毎日芸術大賞(私本太平記)など数々の賞を受賞。1962年9月に肺癌で死去。享年70歳。没時に勲一等瑞宝章を叙勲。







