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楽しく美しい「用」の包装
日本の財政リスクや米早期利上げ観測を背景に、対ドルの円相場はついに162円台に下落した。1986年12月以来およそ39年半ぶりの円安・ドル高の水準で、(2027年度予算案で明確な財源明示がなければ)1ドル=170円台に下落するとの声も聞かれはじめた。
一方で、列島には接近する台風は6月上旬に6号、下旬には7、8号、7月に入り10号と相次ぐ。停滞する梅雨前線を刺激し、西日本を中心に各地で豪雨被害をもたらした。6月に3つの台風が本州に接近したのは1951年の統計開始以降2度目で、ほぼ同時に2つの台風が接近したのは初である。
いずれにしても、もはや「異常」との言葉で片付けられる現状ではなく、「常識」にとらわれない生き方が求められている。「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクション」とは、いかにもアインシュタインらしい言葉だが、われわれは真に自由人としての生き方を問われているのである。
自由人として知られる北大路魯山人は「なになにを何グラムというような料理法を、科学的文化人の生活だと思っている人がある。科学的文化人とは、塩何グラムではなく、科学する生活態度を身につけた自由人のことである」と語る。今回は、その魯山人の語録集「魯山人の食卓」(角川春樹事務所)から、その一部を紹介したい。
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そこで食器のことになりますが、せっかく骨折ってつくった料理も、それを盛る器が死んだものでは、まったくどうにもなりません。料理がいくらよくても、容器が変な容器では、快感を得ることができません。
私は生きた食器、死んだ食器ということをいっておりますが、料理を盛って、生きた感じがしますのと、なにもかも殺してしまう食器とがあります。茶人という者になりますと、向付に五千円、なにに五百円という具合に、よい器を欲します。
それは生きた食器だからであります。食器が下らぬものでは料理まで生きませんから、料理と食器とが一致し、調和するように心がけるものであります。その食器を選ぶということも、ただやかましくいうだけのことではなく、食器そのものを愛し、取り扱うことが楽しみであり、その食器を労わり労わり扱うというところに、料理との不二の契りが結ばれるのです。
食器が楽しいものになれば、必然、料理が楽しいものになるのです。それはあたかも、車の両輪のようなものであります。
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実際、料理といいますのは、好きでつくるというのでなくてはなりません。それが趣味であります。ただ知っておいしくつくるという知識だけではなく、温かい愛情で楽しみながらやるという気持ちであります。だから、食器のことなども心がけることによって、美術の趣味を深くすることができます。
そうして、段々と調子の高いものを求めることです。皆さんが帝展をご覧になれば、いいお気持ちになれましょう。それは美術に対する要求が満足するからです。ところが、さらに高くなると、博物館へ行くということになります。食器の美的鑑賞も向上してくるのでありますし、食物の上にも美をそういうふうに表わすようになります。
すなわち、切り方だとか、盛り方だとか、色だとか、色々なことに心が届くようになるのであります。結局、料理というものは、好きでやるのではなくてはだめだということになるのであります。主人がやかましいから一応知っておかなければ、というような了見では高の知れたものであります。
好きでおもしろく、楽しんで料理をおやりになられるまで進まれるように希望いたします。終わりに、しょう油について、ひと言申し上げておきたいと存じます。濃口しょう油ではどうもよい料理ができないのです。薄口というのがあります。
これは播州竜野でできるのですが、関西では昔から使われています。東京にはこれまでありませんでした。近頃、山城屋には置いています。実際、薄口でなければ、ほんとうによい料理はできません。色はつきませんし、しかも、値段は安く、塩分が多いからよく伸びて、経済からいっても大いに安いし、まったく料理には薄口がなければならいといってもよいでしょう。
それから、刃物のことなどもお話しいたしたいのですが、時間もございませんので、簡単にいいますが、どうか刃物もよく切れるのをお使いになっていただきたい。そしてよく切れると、切るのがおもしろいから、自然、料理に興味が持てるということになるのであります。
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まぐろはいつ頃、どこで獲れたのがおいしいとか、鯛はどうして食べるべきであるとかいうようなことを知っているのが、いかにも料理の通人のごとく思われている。だが、料理はそんなものではない。本当においしいものを食べたいと思う食通は、まず飯を吟味しなくてはならぬ。
飯のよしあし、また飯と平行して、煮だしこぶのよしあし、これを果たしてどのくらい知っている人があるだろうか。美食は物知りなることではない。最もよく使われる、手近な料理の原料になる、これらのものを正当に知らなくてはならぬ。
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外人でも日本人でも、料理を心底から楽しんでいないようだ。味覚を楽しみたい心はもっているが、真から楽しめる料理は料理屋にも家庭にもないからであるらしい。栄養、栄養と、この流行が災いされ、栄養薬を食って栄養食の生活なりと、履き違えをしているらしい。
えて栄養食と称するものは、病人か小児が収監されているときのような不自由人だけに当てはまるもので、食おうと思えばなんでも食える自由人には、ビタミンだのカロリーなど口やかましくいう栄養論者の説など気にする必要はない。
鶏や飼犬のような宛てがいの料理は真の栄養にはならない。自由人には医者がいうような偏食の弊はない。偏食が災いするまでには、口の方で飽きが来て、転食するから心配はない。
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売ることを目的としてつくった料理として発達し、日本料理の名をなしている。また一面、富豪が多数の来賓を招いて饗宴する料理、体裁を主とした装飾料理があって、これもまた一種の日本料理として早くから発達し、その存在が許されている。
このほかに庶民が日常食として親しみをもつ郷土料理があって、これをお惣菜と呼び、日本食の代表的な地位を占め、日本人一億二千人にありとせば、九千五百万人はお惣菜という簡易日本料理によって生活し、これはこれなりに、愚かながらも旧来の食に楽しみをもっているようである。
しかし、万人が日常食とするお惣菜料理の大部分は、あきらめの料理であって気の毒である。高いものは食えない、料理の工夫は知らない、旧慣をありがたいものにして、自分たちはこれでよいのだと諦めているからである。これに付け込んだというわけでもあるまい、放送料理という困った料理放送がつづいている。
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うまい不味いは無意味に成り立っているものではない。栄養の的確なバロメーターである。「人はその食するところのもの」と、ブリア・サヴァラン(「味覚の生理学」)はいっている。その人の生活と、大きく考えれば人生に対する態度が窺われる。
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料理のよしあしは、まず材料のよしあしいかんによる。材料の選択次第である。だから、材料の目利きが肝心である。これは、今まであまりいわれなかったが、従来の料理論のエアポケットだ。どの大根が、どの鯛が、どの鰹節がおいしいか、という鑑定、これがまず第一で、これを今まではお留守にしていた。
北大路 魯山人(きたおうじ ろさんじん)
1883年3月、京都生まれ。生まれると直ぐに里子に出され、不遇な幼少時代を過ごす。1903年、書家を志して上京。1904年に日本美術展覧会で隷書の「千字文」が一等賞二席を受賞。1915年、細野燕台に伴われ、刻字看板を彫る目的で山代温泉に来る。1921年、美食倶楽部を開設し、美食倶楽部で使用する食器を大量に菁華窯で制作する。1925年、東京赤坂に高級料亭・星岡茶寮を開設し、顧問兼料理長となる。1936年に星岡茶寮を解雇され、北鎌倉で作陶に専念する。重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定に推挙されるが辞退。1959年に76歳の生涯を終える。







