トップページ > World View
生活と不可分の包装
以前、知人である水の博士と、東日本大震災の津波に話が及んだとき、博士は「海が長く失いつづけてきたものを取り戻しに来た」といった。そのとき思ったのは、これも災害の大事な観方の一つであるということだ。
近しい人を失い、多大な被害を受けた人には考え難いことかもしれない。だが、災害を主体的にとらえるならば、自然(地球)から何かしらの啓示あるともいえなくはない。どうとらえるかは人それぞれだが、われわれは生かされていることを忘れてはなるまい。
最近は、誰と話しても不思議にコロナパンデミックの時代インパクトに話がおよぶことが多い。コロナパンデミックは、われわれ人類の未来にどのような変化をもたらすのであろうか。また、われわれはコロナパンデミックをどう受け止めるべきなのか。
その意味から、今回は漫画家のヤマザキマリ氏と脳科学者の中野信子氏による対談集「パンデミックの文明論」(文春新書)から、その一部を紹介したい。この対談集は、そもそも互いに関心を寄せ合っていたヤマザキ氏と中野氏の両人が、コロナ禍のリモート対話ですっかり意気投合したことから、(コロナ禍の)2020年8月に刊行された新書である。
* * *
中野 さあ、そろそろ私たちにとってのルネッサンス(再生)を考えてみましょうか。コロナ後にはどんな新しい世界が生まれるでしょうか。
ヤマザキ 14世紀のペストで何千万という単位の人が死んだあと、ルネッサンスがなぜあそこまで盛り上がったのか。疫病というものは、人間を混乱させもしますが、考える時間というものを与えてくれる、ある意味で貴重な機会です。
何せ未曾有の天変地異を経験させられるわけですから、人間とは何か、ウイルスとは何か、社会とは、生きるとはと、様々な思いが頭を巡る。今はテレビだネットだと、誰かの意見に自分の考えを便乗させるという思考の怠惰が顕著ですが、むかしはとにかく自分の想像力を逞しくするしかないわけですよ。想像力の訓練なしにはルネッサンスなんていう精神改革は発生しません。
ペスト・パンデミックが収束をみせたころのルネッサンス初期には、のちに国際ゴシック様式と呼ばれる、これまでにない動きを取入れた新しい絵画が描かれたりしています。漫画のセリフのように言葉を発している受胎告知図とか、それまで誰も試みなかった斬新な芸術が生まれてくるようになりました。
だから、人が考えることをおざなりにしなければ、今回のパンデミックのあとにも各々に蓄積している何かが爆発して、新しい精神改革に結びつく可能性もなくはない。
中野 ただ、百年前のスペイン風邪のあとには、ナチズムやファシズムが待ち構えていた先例もあるわけじゃないですか。そうならないためにはどうすればいいのか。「合成の誤謬」という行動経済学でよく言及される概念があるでしょう。
みんなが少しずつ自分のためにいいと思って振る舞っても、それが合わさると全体として間違った方向に行ってしまうというものです。その誤謬に気づいて、一人だけで正そうとすると、正そうとした人が最も損をする。
なので、一気にみんなで正さなくてはいけないし、一斉にやり方を変えないと、絶対に誤謬は修正されないんですね。でも、こういうパンデミックのあとというのは「いっせーのー、せ」で変える機会になり得るんです。
ヤマザキ 私は、今回のパンデミックにはスペイン風邪のあととは違う流れになる可能性を感じています。今の時代は、エンターテインメントというものが、経済的な生産性をもつようになっているから、経済をもとに戻そうとする勢いがエンタメと繋がれば、新たな世界を創り上げることもできるんじゃないかと。
それこそ、14世紀のルネッサンスが一気に力を帯びたのに似た兆候です。つまり、むかしだったらナチズムやファシズムの勢いに囚われた、不安や怒りや鬱憤を抱えた人たちが、奇抜で凶暴な思想に夢中になる代わりに、もっと楽しい方向性を選ぶのかなって。それがエンタメなのか、あるいはグルメなのか、そこはまだ分かっていないんですけど。
中野 確かに今回、外出自粛で外食もままならなかったので、自粛明けに食べたお蕎麦は最高でした。食べることの楽しみって、こんなに大きかったのかって。
ヤマザキ 私はお寿司。今ここで心臓発作が起きても文句は絶対いわないというぐらいの衝撃的なおいしさでした。そのお店の大将も「もうテイクアウトのバラちらしはつくりたくない」って(笑)。食べものの力は想定外でしたね。食べると心底から元気になることもあらためて知りました。
中野 食べものは重要ですよ。ふだんは食のことをほぼ意識していないから、それこそ下位認識能力みたいに考えているけれど、身体をつくるためには欠かせない大事なものですよね。神経伝達物質の材料も食べものですから、私たちの思考そのものも形成しています。
ヤマザキ 生きるためのエネルギーであり、ガソリンですからね。
中野 「おいしい」と感じた瞬間に脳内に出ているのは、お風呂に浸かったときと同じセロトニンなんです。肉を使った実験があって、人は肉を目の前にすると攻撃的になるんじゃないかと仮説を立てて実験したところ、意外にも、精神を安定させるセロトニンが出ていたことが分かったんです。
ヤマザキ 「アントニヌスのペスト」のとき、食べものをあつかう職業はすべて壊滅状態になったといわれています。餓死の危機やひもじさゆえにキリスト教に走った人もあったわけです。今、食べもの産業がこの危機を何とか乗り越えてさえくれれば、私たちは素晴らしいルネッサンスを迎えることができる可能性があるのかも知れませんよ。
中野 イタリアってほかの国と比べて、食事がおいしいイメージが強いですね。
ヤマザキ イタリア人は食に関しては保守的だし、しかも基本的にその地域の地元料理しか食べません。ワインも基本的には地元のものへのこだわりが強く、ベネト州の人がトスカーナやピエモンテのワインを飲むことは滅多にないです。
食へのチャレンジ精神が旺盛ではないんです。だから、あの地域で出されるどんな料理も食べる前から味が想像できちゃう。だからワクワクしないんです。
中野 食のエッセイ「パスタぎらい」(新潮新書)でトマトソースのパスタは、もう食べたくないと書いてましたよね。
ヤマザキ そうなんですが、さすがに半年以上イタリアに帰れていないので、時々食べたくなってつくるようになりました。宣言を撤回してタイトル訂正しないと(笑)。イタリアは確かに美食国家ではあるけれど、パンなどもメインを支えるシンプルなものしかない。
メインになりそうな食材が豊富ではない地域では、アレンジが利いた情報量の多いパンになる仕組みのようですね。日本ではアレンジパンが多いので、イタリアにいる間は日本のメロンパンやクリームパンみたいなものがとても食べたくなります。
それと、イタリアの人は外国の食べものをもっていっても喜びませんね。義母に日本酒とかポルトガル・ワインをおみやげにあげても、いまだに冷蔵庫の奥底に眠っている。
中野 フランスで日本酒がブームだとかいわれますが、本当に日本酒が好きなフランス人は少なくて、大半の人はフランス産のワインじゃなきゃ飲み物じゃないくらいに思っていますよ。
ヤマザキ やはりそうですよね。日本人ほど世界各地のものを楽しんで食べる民族はほかに類がないと思います。中野 日本人は味だけでなく、情報も一緒に食べて楽しんでいる。
ヤマザキ マリ
1967年、東京生まれ。1984年に渡伊し、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で、油絵と美術史を専攻。1997年から漫画家として活動し、2010年に漫画「テルマエ・ロマエ」でマンガ大賞を受賞。第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。著書には「国境のない生き方」「男性論」「ヴィオラ母さん」「パスタ嫌い」「スティーブ・ジョブズ」「プリニウス」(とり・みきと共作)「オリンピアキュクロス」など多数。エジプト、シリア、ポルトガル、米国を経て、現在はイタリアと日本に拠点を置く。2015年度、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。2017年にイタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年に「プリニウス」をとり・みきと共著、手塚治虫文化賞漫画大賞を受賞した。日本女子大学 国際文化学部国際文化学科 特別招聘教授、東京造形大学客員教授。
中野 信子(なかの のぶこ)
1975年、東京都生まれ。東京大学工学部を卒業後、同大学院医学系研究科修了し、脳神経医学博士号取得。フランス国立研究所で博士研究員として勤務後、帰国する。現在は、東日本国際大学教授として教鞭を執るほか、脳科学や心理学の知見を活かし、マスメディアでも社会現象や事件に対する解説やコメント活動を行う。脳科学をベースにした人間の行動パターンだけではなく、生き方や学び、流行、カルチャーの分野まで分かりやすく解説。またアートに造詣が深く、2022年には森美術館理事に就任する。主な著作に「サイコパス」「不倫」「キレる!」「空気を読む脳」「毒親」「ペルソナ 脳に潜む闇」「『バイアス社会』を生き延びる」「脳の闇」などがある。







